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日本の仏教がお葬式と深い関わりがあるわけを探ってみる その8

「先祖代々」「何々家」の合祀墓はいつ出来たか。

  いわゆる「先祖代々の墓合祀墓」の多くは、実は第二次世界大戦後に普及したものだといえば意外かもしれませんが、建立年などのフィールド調査では、ほぼ間違いないでしょう。

 家制度が始まった頃は「一族墓域」はありましたけれど、墓石はあくまでも個人のものでした。
 寺請制度が始まる江戸時代以前には、よほど身分が高い人以外は、石で作られた墓などは作られませんでした。
この経緯については、講義その6で述べたとおりです。

幕末にペリーと会見した松前藩家老、松前勘解由のお墓。ちっちゃいです

 立派な墓石が建てられるようになったのは、明治時代以降です。
 その大きな理由は、一説によれば明治271894年に起こった日清戦争に日本が勝利して、海外植民地を獲得したことにあります。

 それで、台湾の良質な石材が安く入ってくるようになったことから、盛んに石造りの大きなお墓が、お金持ちを中心に競うように作られるようになったというお話もあります。      そして墓自体は、○○家の墓域における個人のお墓で、せいぜい合葬されても夫婦単位でした。

 また、地方農村では土葬が一般的で、遺体を埋めた後の土まんじゅうに、せいぜい若木を植え、参り墓という一族や集落の共通の墓標がある風習など、現在に比べると、各地域によって独特な死生観の下、集落による多様な葬制が執り行われていました。

供養とは、忘れないことなのよ

 実に皮相的な社会現象なのですが、民法改正で、家制度が徐々に崩れ始めた第二次世界大戦後に「○○家先祖代々」という立派な合祀墓が作られるようになりました。

 一見矛盾しますが、この背景には農地解放による「自作農」の増加にありました。

 収入に余裕が出来た地方の自作農たちは、家を新築し始めました。そして、お墓も「家」と同様新たに建てて、先祖供養の碑としたと考えられます。

 これは農村における伝統的な祖霊信仰の延長でもあり、どの家にも神棚と仏間が設けられたこととリンクしていると考えられます。
 同様に石材屋さんもかなり潤ったことでしょう。また寺院も寺域内に墓地を提供することで、供養料が入るという経済的な理由もあります。
 地方の多くの寺院は地主でもあったわけですが、この土地も小作農に解放されたため、新たな収入源が必要になったことも大きな理由です。

 しかし、こういった先祖代々の一族合祀墓は、核家族化や少子化が進む今、大きな課題を抱えています。
 一番大きいのは誰がこれを引き継ぐかという問題。都市に人口が集中し、子供は都市に住み、地方には年老いた親が残る。そして施設に入るなどで、墓の管理が難しくなっています。祭祀相続はそれ自体が経済的かつ精神的な負担になります。核家族化が進んだ現代では、大きな負債リスクとなっているのです。

 そのため、最近では「墓じまい」という事が行われ、合同墓に再葬して、永代供養料を払って一緒に供養してもらうという事例も増加しています。
 年寄りの縁者は「罰当たり」のようなことも言いますが、それはある意味無責任な認識であると、あたし自身の見解としてはそう感じます。

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