見出し画像

お気に入りエピソード『気圧計の問題』

私のお気に入りのエピソードに、『気圧計の問題』というのがあります。これは、気圧計を用いて高いビルの高さを測定するという問題に対して、学生が教師の期待に背く答案を提出する、という物語です。気圧計は英語ではバロメーター(barometer)と言いますが、”○〇○は健康のバロメーター”のように、一般的な”指標”の意味としても使われます。

『気圧計の問題』は、ノーベル賞受賞者であるアーネスト・ラザフォード卿が同僚から受けた相談から始まります。その同僚は物理の問題に対する学生の答案に0点をつけましたが、学生は異議を唱えて満点を主張します。その同僚と学生は公平な裁定者に判断をゆだねることに同意し、その裁定者をラザフォードにお願いしたのでした。

その問題は、『高いビルの高さを気圧計を用いて測定できることを示しなさい』というものです。学生の解答は次のようでした。『ビルの屋上に気圧計を持っていき、それに長いロープを結びつけて気圧計を地面まで下げます。その後ロープを引き上げロープの長さを測定します。その長さがビルの高さです』。学生は、問題に対して完璧に正確に答えたので満点を与えられる資格があると主張します。しかし学生の解答からは、物理の能力を確認できません。

ラザフォードは学生に、別の解答を考えるように提案しました。解答が何らかの物理学的知識を示すものになるよう警告しました。学生は、この問題に対するたくさんの解答を持っている、と答えました。学生は、その中で最良のものが何かを考えていたようです。学生の別解は次のようでした。『気圧計を持ってビルの屋上に行き、屋根のふちから身をのりだします。気圧計を落とし、ストップウォッチで落下時間を測定します。その後、自由落下の公式h=0.5gt^2 を用いてビルの高さを計算します』。学生はあくまでも、”正当”な解答を拒みます。

ラザフォードの同僚は降参し、学生にほぼ満点を与えました。同僚のオフィスを出たところで、学生がたくさんの解答を持っていると答えたことを思い出したので、ラザフォードはそのことを学生に聞いてみました。

学生は答えました。「気圧計を使って高いビルの高さを測定する方法はたくさんあります。たとえば、天気のいい日に気圧計を持ち出し、気圧計とその影の長さ、ビルの影の長さを測定することができます。簡単な比例計算でビルの高さを求めることができます」。「他の方法は?」。「あなたが好きになるであろうとても基本的な方法があります。この方法では、あなたは気圧計を持って階段を上ります。階段を上るたびに壁に気圧計の長さのしるしをつけていきます。その後あなたが気圧計のしるしを数えれば、そこから気圧計の長さを単位としたビルの高さを求めることができます」。「とても直接的な方法だね」。「もちろんあなたはもっと洗練された方法を望んでいることでしょう。あなたはヒモの端に気圧計を結び、それを振り子として揺らすことができ、そこからビルの屋上と地上でそれぞれのg(重力加速度)を決定することができます。2つのgの値の違いから、原理的には計算で求めることが可能です」。「同様に、長いロープに気圧計を取り付けてビルの屋上から地面までおろし、振り子として揺らすことができます。歳差運動の周期からビルの高さを計算することができます」。「結局、この問題を解決する方法は非常にたくさんあります。たぶん最良の方法は、気圧計を持って地下に行き、管理人室のドアをノックすることです。管理人がいたらこんな風に尋ねてみてください。管理人さん、気圧計をプレゼントしますのでビルの高さを教えていただけませんか、ってね」

そこまで聞いた所でラザフォードは学生に、この問題に対する典型的な答えを本当に知らないのか尋ねました。彼はそれを知っていることを白状しましたが、それを教え込もうとする高校や大学の先生にうんざりした、とも言いました。その学生の名前はニールス・ボーア。後に量子力学の理論でノーベル物理学賞を受賞するデンマーク人の物理学者です。

天才のエピソードを語る非常によくできた話ですが、実は、この話は都市伝説の一つのようです。ボーアとラザフォードは、ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所で同時期に研究していますが、ボーアが学生時代の接点はありません。この話の原型は、1958年のリーダーズダイジェストに書かれた記事です。その後、1988年のシカゴ・トリビューンにも掲載されたようです。オリジナルの作者は、ワシントン大学のAlexander Calandra博士という人物のようで、Calandra博士自身がまとめた文章に、実際にこの質問を物理学生に出題した際のさまざまな解答が掲載されているそうです。しかし、オリジナル版にはラザフォードやボーアの名前はありません。

有名人になると、後に様々なエピソードが作られます。『ガリレオのピサの斜塔からの落下実験』や『フランクリンの凧の実験』なども、実際に実施した証拠が見つかっていないそうです。有名人でなくても、話が拡散する際には尾ひれがついて、最初とは大きく違った話になることは少なくありません。

話を戻しますが、ある問題を解く場合、答えは一つではありません。この気圧計問題は、ひとつの問題に対して様々なアプローチを試みることが重要だということを気付かせてくれます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?