なぜ、私は統一教会の被害者家族であり、安倍晋三を殺害した山上容疑者を擁護するのか

なぜ、私が山上容疑者を擁護し、山上容疑者の怨恨、憎しみによって殺された安倍晋三を批判するのか。

当たり前ではないか。

我々、人民・国民・大衆・民衆は、いつ、山上容疑者のような被害者家族になってもおかしくないからだ。山上容疑者は統一教会からの被害だが、何も統一教会に限らず、我々、人民・国民・大衆・民衆は、オレオレ詐欺だの闇金だの、自己啓発セミナーだの、安倍晋三が広告塔だったジャパンライフのような投資詐欺、または企業からの長時間労働という暴力、サービス残業という収奪(内部留保につながっているのだ。)、パワー・ハラスメントやセクハラという名の性的暴力など、このような中でいつ、どれが自分への暴力となり、被害者となるのだ。あなたは企業で過労死させられ、半身不随になったとする。社長が憎くないか。殺したくないか。暴力から、民主主義を守るという言葉がまったくもって偽善の現実を直視しえない嘘に聞こえないか。

そうなのである、我々、人民・国民・大衆・民衆と称される人々は、いつ、山上容疑者になってもおかしくない。

そして、安倍晋三へ献花する連中はわかっていない。君ら、人民・国民・大衆・民衆がいくらなりたくても安倍晋三の側にはなれないのだ。階級論の基本ではないか。

だから、現実主義の私は、山上容疑者を擁護する。

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