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ノスタルジーに浸りながら、古都鎌倉を歩く


半年ぶりにカメラを握ってやってきたのは、鎌倉だった。一年半前を思い出す。あそこが人生の分岐点だった気がする。ここであれをやってしまったから、僕は知らなかったはずの事を知ったし、学ぶ事のない事を学んだ。

ノスタルジーに浸りながら歩く。何故だか、想い出になった土地、店、場所を記録したくなる。今とあの頃の異なりを楽しみながら、失われた先入観が見せる驚きや興奮を感じていく。
知らない道に感じてしまう不思議な既視感と、何故か忘れていた知っている道。
僕は一年半もの間この場所を見ていないのに、それは昨日のように、昨日から今日に突然時の変遷が過ぎ去ったような錯覚を覚える。

世界がまるですぐそこにあるかのように、思い出は隣に寄り添ってくれる。何故だか、自分の故郷のような感覚に陥る。よく知らない土地を、よく知った土地のように話したくなる。


鶴岡八幡宮、若宮大路。
こんなところであの祭りがあったのかと、不思議な驚きに満ちる。改めて見返すと、道路はとても狭いし、車も飛ぶように走る。あの店、あの通り、あの駐車場。全てにノスタルジーを感じて、あの場を過ごした人たちの今を想う。



鳥の囀りが聴こえる
会話のように



荏柄天
相変わらずグッとした場所だった
鎌倉大仏
長谷寺

鎌倉大仏と長谷寺は記憶の内では初めての場所だった。長谷寺の11面は恐ろしかった。圧迫感というのはそれだけで霊性的恐怖心を煽る。僕もまだ人間なのかもしれない。

"辱しに涙流るる"
という感覚には、まだ辿り着くことは無かった。僕も修行が足りないのかもしれない。

まだまだ、"恐ろしさに足震える" そんな僕だ。


大仏の胎内は化石のようだった


久しぶりに遠出した。久しぶりにファインダーを覗いた。最近は焦点の合わないマットな世界環だったから、focusするというのは新鮮さもあった。
けれど、撮る写真撮る写真。どうにも主役がいないように思える。どこにフォーカスしているのか。何を切り取ろうとしているのか。あまり感知する事が出来ない。


あの祭りは、過去なんだろうか。昨日のように感じてしまうあの祭りは、過去なんだろうか。まるで明日にも祭りが起きる気がする。今日の僕は、祭りを待っている前日の僕と似ている。またあの雪が降る。そんな気がする。

けれど僕は、明日ここにはいないから、祭りが起きてもわからない。ここはどこなんだろう。祭りという起点のない今、どこに向けて歩くんだろう。


帰り際。友達の事を思い出す。
場所と時間は紐付いている。
僕は、友と時間も紐付くのかもしれない。

そういえば、僕は"世界" を"セカイ" と書かなくなった。予測変換の順番も、"セカイ" はずいぶん後ろに下がってしまった。人間を生きている証拠かもしれない。
つまり僕は、僕だけのセカイを歩かなくなった。僕は僕たちの世界からまた歩き始めた。どうすれば僕たちの世界は "セカイ" になれるんだろうか。



藍色の季節が終わり
夕焼けする朝日を求めている

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