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自らの権利を勝ち取るために

世の学校、特に中学・高校において、生徒の自由拡大の気風が起きている。
面従腹背の状態より、はるかに望ましいことである。
自由を求めることで、初めて責任について真剣に考え始めることができるからである。

その過程において、仲間との協力、周囲の理解を得ることの重要性も学べる。
それは、甘えからの脱却機会ともなる。
「クラス会議」で求めている力そのものである。

自由の権利を拡大して欲しけど、責任を負う気はない。
これでは到底、容認することはできない。
組織の責任をとる立場にある側からすれば、答えは「NO」に決まっている。

何かをやる権利を得ると同時に、為すべき義務や責任も一緒に果たす覚悟が必要である。

以前にも書いたが、教室を例にすると、子どもに
「授業中に必要に応じて立ち歩く」
という権利を認めると同時に
「他者を妨害しない」「学び合う」
を果たすことを期待し求める。
お互いにとって、よりよい姿に向かう状態である。

もしこれが
「自由に立ち歩くし授業も真面目に受けない」
というのであれば、ここは当然
「立ち歩きは認めない」
という方向に転換せざるを得ない。
お互いに首を絞め合う状態に陥る。

宿題もこれと同じで、多くの場合、宿題を出さないと勉強しない怠け者とみさなれているから、宿題が出るのである。
教える側は、そのように「デキる大人」が管理しないと学力における責任がとれないと考えているのである。
本来は、子ども自身が自分の必要な学びを主体的に選択していける方が上策である。
(しかしながら、これが理想論に陥りがちなのは、この後に述べる理由による。)

この幸せと不幸の分岐点を決めているのは誰か。

先にくるのは、教室における全責任を負っている教師の側である。
一定の権利を拡大して与えていかなければ、いつまでも旧い枠を出ることはできず、成長も望めない。

次にくるのは、権利を行使する子どもたちの側である。
拡大された枠を適切にフル活用していけば、更なる枠の拡大も望める。
一方、勝手に枠を出る行為や不適切な行為が続出すれば、制限がかかり、枠の縮小に向かう。

双方に決定権があるといえる。
教師の側には精神的な面、決断する覚悟が必要である。
子どもの側にはそれを断固として行うという、実質的な行動が必要である。
言い換えれば、教師は「よし」と言えるどうかで、子どもは実際にやれるかどうかである。

これは家で子どもが「ペットを飼いたい」と言い出す状況に似ている。
「ペットを飼う」という権利に対し、許可を出す親側にはその養育責任が発生する。
子どもに「責任をもって世話してね」と言っても、実際の最終責任と飼育費用負担は大人である親の責任である。
子どもの側は「責任をもって世話し続ける」という実際の行動が求められる。

親の側は許可を与えるべきかどうかが問題で、子どもの側は実際に世話を続けられるかどうかという課題である。
親の側の判断基準は「子どもが約束通り世話をしそうかどうか」である。
これは、日常の行動にかかっている。

そして許可を出す多くの場合、親は「最終的には自分が世話をするしかないか」と口には出さないが腹を括っている。
逆を言えば、親が世話をできない状態の場合、本当に子どもが世話をできる人物でない以上、許可は出せない。
親が「約束守れる?」と問えば、子どもは必ず「うん!」と自信満々に答えるが、口約束に全く意味はない。
実際どう行動するかが全てである。

感情はその場のことなので、後のことなど考えない。
恋愛に浮かれている状態のカップルの心理と同じである。
盛り上がっている時は容易にできると思い込んでいることだが、調子が悪い時にも同様に行動する大変さは想像できない。
(だからこそ、感情や調子の上下に左右されない「習慣」が最強たる所以である。)

学校が何かと「カタい」のはこのあたりの理由が大きい。
「あれもこれも認めて。だけど何かあったらそっちの責任で」
と言われたら、当然容認しない。
「認めない」という選択肢をとるのは自然のことである。
組織が超巨大な縦割り構造である以上、上の立場であるほどなかなか容易には認められないだろう。

学校単位で校長が腹を括ればいいと言えば一見かっこいいが、そう簡単にいくはずがない。
警察のお世話になったり裁判沙汰になるなど、学校単位で責任を取り切れない場面が必ず出る。
お上の許可が出ない以上、巨大組織における下位組織では慎重にならざるを得ない。
学級単位はもちろん、学年単位ですら何でも自由に決定できない。

そうなると、上が責任を取らざるを得ない場面を、なるべく発生させないようにするのが認めてもらうための上策である。
「こういう問題が予想されるからこう防ぐ」という予防策。
「万が一起きたらこうする」という治療策。
この両方がきちんと示されていることが大切である。
(「現場の判断と創意工夫で」という言葉は、丸投げながらその点で互いにとって都合のいい言葉でもある。)

子どもたちが自由の権利を拡大しようとする動きはとてもいい。
そのためには、子どもたち自身が周囲に信じてもらう必要がある。

「私たちを信じて!」と透き通った輝く瞳で訴えかけてもダメである。
日常の行動が全てなのである。
権利を委譲する際に必要なのは、心情的な「信頼」ではなく実質的な「信用」の方である。
信用を勝ち取るには長期の積み立てが必要である。
権力濫用が予想される状態では到底信用できないし、逆であれば気持ちよく権限委譲できる。

先に述べたように、具体的な方策も大切である。
事故が発生しないようにする予防策と、万一事故が起きた場合の対処法まで明確に提示する必要がある。
これは、デメリットを予め提示するということでもある。

同時に、権限委譲によるメリットも示す必要がある。
メリットがないなら旧来のままでいいということになるからである。

この辺りの交渉については、基本的に商売と同じではないかと思う。
「熱い想い」だけでは、個人は動いても組織は動かないということも、学ぶべき項目である。

この自由拡大の気風が、未来に良き変化をもたらすことを期待する。

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