『東京都同情塔』に人は同情できるか
歴史に関する話が続いたので、今回はエッセイ。
テーマは「寛容」。
第170回芥川賞の次の作品を読んでの気付きを徒然なるままに書く。
『東京都同情塔』 九段理江 著 新潮社
新潮社のHPにあるように、「究極の寛容社会」となった架空の日本が舞台となっている。
しかし、自身が元被害者ということもあり、そこに対して寛容になれない天才建築家である主人公。
超寛容社会においては、常に自分自身の安全・安心が脅かされ続ける。
犯罪者は「哀れな人」であり、どんなひどいことをしたとしても「守られるべき」存在だからである。
基本的に寛容の姿勢というのは、相当な忍耐を要する。
自分や家族にとんでもない暴行をされたり暴言を吐かれたりしても「あなたを愛します」という世界である。
果たして、凡人である我々にそれができるかどうかである。
非暴力主義といえばガンジーだが、自伝を読むと、なかなか苦悩したようである。
そもそもガンジーとて、決して無欲ではなく、大欲のための信念として非暴力「主義」を貫いたようである。
基本的に人間の根源的欲求に抗うというのは、不自然を生む。
そして安全・安心は生きていく上での基本的欲求である。
では、どこまで人は各種犯罪や横暴、理不尽に対して、寛容になるべきなのか。
以前にもメルマガで書いた「死刑制度の是非」にも繋がる話である。
「あなたはなぜあの人たちのような不幸な境遇に生まれなかったのか」と問われれば、そこは答えようがない。
では「期せずして平凡」な境遇に生まれた人間は「不幸な人々」によって課される理不尽に耐えるべきなのか。
ここに、読んでいて激しい抵抗感を抱く。
そんなことが、許されていいのだろうか。
いや、生まれながらに不幸な人たちなのだから、そこは寛容に見てあげるべきなのか。
もっと言えば、優れた結果を出せる人間、豊かに持っている人間は、搾取されても当然なのか。
「(世間から見て悪徳な)金持ちから貧乏な主人公が盗む」は、社会規範的な正義の物語として正当化されるべきなのか。
教室でも、このジレンマは起きる。
担任にとっては、全ての子どもが全ての親にとっての大切な宝物、預かりものという意識である。
だから、教室の誰に対しても、あだやおろそかにする訳にはいかない。
それは、あることに対して真面目な子どもだろうが不真面目な子どもだろうが、同様である。
誰に対しても優しく穏やかな子どもだろうが、真逆だろうが、同様である。
ただここに、明らかなミスを起こしやすい。
不真面目、乱暴な者への過剰な優遇である。
具体的にはそこばかりを叱る、着目する、関わるという行為である。
(他の子どもにとっては「普通」レベルのちょっといいことをしただけで褒められるということもある。)
ここに対し、多数の真面目な人間の不平不満が爆発する。
その末路こそがいわゆる「学級崩壊」と言われる状態である。
「真面目にやってられるか!」という投げやりな心境になるのも無理はない。
これは、学級に限らず、大人の社会でも同様である。
また一方で、この作品とは真逆に「やられた側は絶対に正義」というような誤認も、相当にまかり通っている。
やられた側と同様、やったとされる側にも言い分や理由は必ずある。
そのすり合わせが前提にあるはずなのだが、そこがすっ飛ばされると冤罪のような話にもなる。
結論、何においても、極端はいけない。
世界は、マクロな世界からミクロな世界まで、どこも絶妙なバランスで成り立っている。
正義にとっての悪があるのと同等に、悪にとっての正義もある。
何が入るのであれ、「究極の○○社会」の行き着く先は、結局地獄である。
どんなに尖っても出っ張ってもいいが、偏りすぎないことは常に大切であると感じた。
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