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聞き上手な集団は話しやすい集団

昨年に出した次の本について。

『学級経営がラクになる! 聞き上手なクラスのつくり方』学陽書房
https://www.amazon.co.jp//dp/4313654836

学級経営において「話が聞ける」。
この大切さについて、どれぐらい肚落ちしているかである。

昨年、他校や出版社、企業等からの参観者が複数あった。
見てくれた方は誰しも子どもたちの「話の聞き方」について言及してくれている。

子どもたちが話が聞けるということは、即ち子どもたちが話ができるということでもある。
子どもたち同士は勿論、参観者のような方々とも気軽に話せる。
なぜなら「聞いてもらえる」は「受け容れられる」ということと同義だからである。
普段から、話すことが容易に楽しくなっているからである。

互いに聞ける子どもが育つと、子ども集団が柔らかくなる。
とげとげしい言葉が徐々に、あたかも雲が空に溶けていくようになくなっていく。
そんなこと言わなくても、聞いてもらえるからである。

そもそも、大人社会でもなぜ激しい言葉の応酬になるのかといえば、互いに聞けないからである。
「でも」「だって」は、言うなれば相手の怒りの炎へ燃料を追加して放り込んでいるようなものである。

強調して指導すべきは「仲間の話を聞く」である。
これはもはや選択肢のない、強制である。

教師の話は、多少聞けなくてもいい。
その気持ちはわかる。
私自信も学生時代、そこまで集中して聞いてなかった記憶がある。
教師はどうせたくさん話すし、立場上、他より圧倒的に聞いてもらいやすい。

しかし、仲間の話は絶対に聞かねばならない。
なぜならば、自分自身が話す時に、それと同じ現象が起きるからである。
「自分の話を聞いてもらえない」は、言語なり行動なりに暴力的な力となって噴出する。

即ち、学級崩壊をはじめ、学級における様々な問題は「聞く」が成立することで、かなりの部分が解決する。

しかし、ここで勘違いしてはいけないことがある。
適切な指導をすれば、話を全員が聞けるようになる訳ではない。
あくまで「話を聞ける集団」にしていくことができるということである。

この本の中では「聞けない時には」という言葉が何度も出てくる。
どこか教師には「聞けない相手の責任」「うまい指導で聞かせるようにできる」という勘違いがある。
事実は、聞けない状態の時は、どうやっても聞けないのである。
この辺りの諦め(明らかに認める)というバランス感覚が大切である。

いずれにせよ、この本に書いてあることは、学級づくりをする上で最低限知っておいた方がよい。
20年以上やってきた事実からの、嘘偽りのない実感のみが書かれた本である。
それをワンクリックでひょいと手に入れることができるなんて、何て安易で安いものだろうと思う。
20年前、色々と悩み苦しんでいた自分にプレゼントしてやりたいと思う。

話を聞けるということの重要性。
強調しすぎてもしすぎることはない事実である。

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