異動の壁
これは壁アドベントカレンダー2023の20日目の記事です。
大学教員の昇進には高い確率で異動が伴います。大学にもよりますが、同じ大学内で自動的に昇進することはまれであり、多くの場合は、自分で上位職の公募を他大学から見つけてきて応募することになります。地方の場合、研究大学が県に1つしかないなどざらにあり、自分の家から通える範囲で自分に合った公募がでるなんてことがほとんどないため、他県で(あるいは他国で)新しいポストを獲得することになります。
家族がいる場合、引っ越しを伴う異動は大きな壁となります。配偶者が働いている場合はどうするのか、子供が保育園や学校へ通っている年齢の場合はどうするか、そのほか介護など様々な家庭事情で引っ越しが難しい方は多くいると思います。
これは、ある大学教員が家族を連れて異動するにあたって、悩んだことを書き綴った怪文書です。大学教員に限らず、家庭事情が壁となり引っ越しを伴う転職や異動をためらっている方は多くいらっしゃると思います。その方の少しでも参考になれば幸いです。
登場人物
私 :大学教員をやっている。2017年4月~2021年8月まで九州大学助教
→2022年9月~大阪大学准教授。
妻 :フルタイムで働いている。
息子:2歳8か月(2023年12月20日現在)。保育園に通っている。
かわいい。かしこい。
時系列
2021年3月頃~ 公募に出し始める。
2022年3月 現在のポスト(大阪大学)の公募に応募。
2022年9月 大阪大学着任。単身赴任開始。
吹田市の保育園見学開始。
2022年10月中旬 ファミリー向け物件内見&契約。引っ越し見積もり。
吹田市保育園応募。
2022年12月中旬 家族を連れて吹田市へ引っ越し。妻休職。
2022年1月 妻出勤開始。息子一時預かり開始。
吹田市の保育園に落選。
企業型保育園の提携依頼&申し込み。
2022年2月 企業型保育園内定。
2022年4月 企業型保育園登園開始。生活が安定し始める。
はじめに
はじめまして、早志(はやし)と申します。私は2016年に博士号を取得し、1年間のポスドクを経て、2017年より約5年半九州大学で助教として働いていました。5年半の福岡での生活の間に、現在の妻と知り合い、結婚し、息子が生まれ、公私ともに慌ただしくも充実した生活を送っていました。
九大でのポストは任期なしで研究室の雰囲気も良かったので何の不満も無かったのですが、当時のボスが助教や准教授のキャリアアップを積極的にエンカレッジしてくれる方で、全スタッフに「早く業績を出して次のポストを見つけろ」と口を酸っぱくしておっしゃっていました。その影響もあり、(一般的な任期付き助教の任期である)5年をめどに次のポストを見つけようかなと着任時から漠然と思っていました。
ただ、実際5年経ってみると、家族での生活も出来上がっているし、家賃が安くてご飯もおいしい福岡での生活に愛着も沸いているわけです。県外へ引っ越すような異動は避けたいなと思うようになってきていました。県内(≒九大内)で自分に合った公募が出れば良いですがそんなうまい話はなく、県外でポストを見つけるべきか悩む日々が続いていました。
配偶者のキャリア
県外への異動をためらう一番大きな理由となっていたのは配偶者のキャリアです。妻はある資格を持った専門職として働いており、生涯働き続けたいという強い意志を持っていました。資格があるため同業他社への転職自体は可能で、大学教員と結婚した時点で異動があることは覚悟していると口では言ってくれていました。しかし、キャリアアップのためには同じ会社で働き続けることが重要かつ、長く勤めた職場に愛着もあるようで、私もそれを尊重したい(むしろ尊重して当然)と思っていました。また、妻は九州生まれ九州育ちであり、福岡という土地にも愛着がありました。
悩んでいた時期に色々な方に話を伺ったのですが、自身と配偶者のキャリアのコンフリクトに悩む方は多くいらっしゃるようで、研究者同士の夫婦はその典型的なパターンでした。結局どうされたのかを聞くと、やはり良い解決策は無いようで、どちらかのキャリアを諦めるか、同居を諦めるかの2択でした(後者が多かったです)。
私の場合の結論は、私の新しい勤務先である吹田市内に偶然にも妻の会社の別拠点があり、そこへ転勤してもらうというものでした。同じ地域に別拠点があったのも、妻の異動願が認められたのも全くの偶然であり、この手段が取れなければ県外の公募に出すことは無かったかと思います(というより、別拠点が近くにあり、異動願が通る可能性をあらかじめ聞いてもらっていたから阪大の公募を選んだという方が近いです)。これにより、双方のキャリアの継続という点はクリアした選択がとれました。しかし、福岡や福岡の職場への愛着という点では諦めてもらう形となり、非常に申し訳ないという思いでした。なお、完全に私と妻同時に異動というのは難しかったため、3か月間の単身赴任期間を挟みました。
単身赴任
私の着任が2022年9月、妻が1か月の休職の後2023年1月に異動ということに決まったため、12月に家族で引っ越すことにし、9月~11月の間は単身赴任期間となりました。阪大の独身寮を借り、週末には飛行機で大阪と福岡を往復し、その間に家族で住む家と子供の保育園を探すこととなりました。一般に単身赴任では、家族の住む家と赴任地の往復による金銭的負担が大きいですが(単身赴任者の交通費が一定額を超えると税金の控除があるようです)、3か月間と決まっていたのでこれまで貯めたマイルによる特典航空券を活用して乗り切りました(10万マイルくらい使いました)。ただ、往復による身体的負担や、新居や保育園という大事なことをリモートで相談しつつ決めるという精神的負担、妻も平日は子供の面倒を一人で見てくれていたので、この期間は夫婦ともにかなり疲弊しました。
保育園
結果的に最も苦労した点です。元々住んでいた福岡市も引っ越し先の吹田市も認可保育園は激戦区です。家庭状況がポイント化され(例えば、フルタイム共働きは+80点、きょうだい児がいると+8点など)、ポイントが高い家庭から優先的に入園できます。ただし、常に多くの人が枠が空くのを待っている状態で年度途中に入園できることはなかなかありません。可能性が最も高いのは新年度が始まる際に学年の持ち上がりで枠が増えるのを狙うケースです。そのため、4月入園の募集は10月頃に「一斉申込」という名で特殊な募集がかかります。
12月に家族で引っ越した後は、1月~3月は妻の職場の一時預かりを利用し(この一時預かりのの存在は非常にありがたかったのですが、ただ預かってくれるというだけで保育園という感じではありませんでした)、認可保育園の4月入園を狙うことにしました(ダメもとで1月入園の書類も出しましたが当然のように落ちました)。9月に着任した後の忙しい時期に、保育園の見学をしてやたら多い書類を必死に準備し、何とか期日までに提出しました。しかし、その苦労の甲斐なく、落選という結果になりました。
4月以降の保育先で困っていたところに救世主となったのは、企業型保育園の存在でした。企業型保育園は厚労省ではなく内閣府が推進している形態で、企業が主体となって基本は従業員の福利厚生のために運営し、認可外ながら国からの補助を受けられるため保育料も安くなります。「基本は」と書きましたが、設置企業の従業員が優先的には入れる「企業枠」と一般の人が入れる「地域枠」があります。さらにややこしいのですが、設置企業だけでなく、提携を結んだ企業の従業員の子も「企業枠」として入園できます。新居の近所にこの企業型保育園があったため、阪大のダイバーシティ&インクルージョンセンターというところに頼んで提携企業になってもらい、「企業枠」で入園させてもらうというトリッキーなことをしました。これで苦労した保育園問題がようやく解決しました。
公募
公募戦線については今回の本筋ではないので詳しくは触れませんが、5件応募し、3件面接落ち&1件書類落ち、最後に受かったのが今のポストです。2021年3月頃から学内からの公募を中心に応募していましたが、大学教員公募は求められる専門性と自身のそれのマッチングが非常に重要であり、それが満たされるものは学内ではなかなか無かったというのが主な敗因かと思います。現在のポストは、機械学習とコンピュータビジョンという基本的な専門性という点ではマッチしつつ、応用先が他のスタッフと程よくずれており、日々勉強になって非常に良いです。4連続で落とされた後で自分は必要とされていないのか落ち込み始めていたので、受かったときには拾ってもらった感謝の気持ちが最初に来ました。
メンタル
様々な幸運も重なり、無事に色んな問題を解決していったのですが、メンタル的にはかなりダメージを受けていました。まず、引っ越しという行為が身体的にも精神的にも辛いこと、福岡という土地が私自身とても気に入っていて愛着があったこと、妻や子に転勤や転園をさせてしまう罪悪感、引っ越しや単身赴任でお金がかかるにも関わらず着任後の手取りが着任後にしかわからない経済的不安、さまざまな要因が重なり一時的に精神的に参ったりしていました。
特に、子供が生まれ育った家や街を離れるのは胸が張り裂けそうなほど辛かったです。楽しかった思い出がありすぎます。自分の地元を離れたときよりよっぽど辛かったです。大学教員の流動性とかいう概念は研究者個人にとっては厳しいものでしかないです(ずっと助教でいても先はなかったので、拾ってくれた阪大にはとても感謝しています、念の為)。
また、経験された方はわかると思いますが、保育園の転園は保護者の方が辛いです。慣らし保育で情緒が不安定になる期間を乗り切ったこと、熱を出した連絡を受け迎えに行き病院に行ったこと、閉園時刻ぎりぎりになり走って迎えに行ったこと、色んな苦労を共にした思い出があるので、転園となったときに親自身が思った以上に園に愛着がわいていることに気づきます。息子の福岡での最終登園日はお遊戯会でした。当日はカメラを回しながら号泣する不審者が出来上がりました。
おわりに
色々なことがありましたが、異動から1年経ち、生活も安定してきました。関西という土地の面白さもわかってきて、辛かったことも思い出として語ることができるようになりました。といいつつ、年明けに第二子が生まれることになり、その関係でこれを書いている今日まで3週間のワンオペをするなど、また慌ただしい生活をしています。自身の異動と家庭事情の間の壁を破壊する銀の弾丸はどうやら無さそうですが、この怪文書が誰かの参考になれば幸いです。
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