同じ値かどうか

錯視によって太く見えたりずれて見えたりするのを、太さや角度といった「数値を信じずに」いかに調整するかが書体デザイナーの腕の見せ所だということを、日本語でたくさん読んでそういうものかと思っていた僕は、ドイツで書体デザイナーとして働きはじめて困難に直面した。ドイツ人の同僚や上司たちは「数値が揃っていないこと」を気にする人々だったのだ。そしてそのあと、たくさんのドイツ人(と少しの他の欧米の人)と仕事をする中で学んだのは、錯視調整は最小限にしてなるべく数値を揃えて描いているほうが、仕事上の問題を避けられるということだった(ちなみに、上司のデータチェックや同僚との共同作業がなく、ひとりで作業を完結できる環境にいる人は、あまり気にしなくてよい話です)。

たとえば、僕の眼にはあるステムが他と比べてちょっと太く見えたとしても、他の同僚の眼に障るとは限らない。そのとき僕が数ユニット調整して、「なんでここ揃ってないの?」と訊かれたら、「僕の眼にはそう見えたので……」としか言いようがない。その返答の説得力のなさたるや! 計測を等閑にした言い訳のようにも聞こえてしまう。考えてみれば揃っていることはデザインの基本、秩序があるということは西洋の美の基本である。眼に太さや黒みが多少揃っていないように映っても、値が同じであるという事実によって「少なくとも間違ってはいない」ことが保証される。そして移民としてここに住み、ここの文字を作っている以上、数値を優先して共同作業をしやすくするのも土着の同僚の考えに従うのも、たぶん、大切なことなのだろう。

このことを学んでから著名ファウンダリの欧文書体を色々見てみると、太いウエイトでアルファベット間の黒みのばらつきが強く残っているものが結構あることに気づく。これらが調整されていないのは、設計者の中で、値が揃っていることの持つ説得力が強いからだと思う。また、インターポレーションの結果には手を入れない主義(数値をもとに生成されたものを信じる考え、とも換言できる)が大勢なのもこの結果に繋がっているだろう。あと時々思うのは、どこまでの黒みが障るかというのが、僕(たち?)と彼らでちょっと違うのでは? ということだ。これをもっとちゃんと確かめる術があれば面白そうである。

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* ラテン文字の世界における、アルファベットの形や線の太さを数値的・幾何学的に捉える試み(その試み自体が「揃うこと」に向かうものだと思いますが)の長い歴史は、白井敬尚「タイポグラフィ:言語造形の規格化と定数化の軌跡」 に詳しいです。

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