見落としがちな事

きっとそこには、議論の余地はない。
あったとしても、議論の余地しかない。
(森博嗣 エッセイ「議論の余地しかない A Space under Discussion」)

この文章を初めて読んだ時、ハッとした。
いや、語彙力が無さ過ぎてゴメンナサイ。

前後を省いているので解りにくいと思うかも知れないけど、その「議論」の対象が何であるかは考えなくて良いです。問題はその思考のプロセス。

何かを考えるに当たって「議論の余地はない」という言い回しは頻繁に使用されることと思う。そして「本当に議論の余地はないのか」とアイディアを捻り出して、もし余地が生まれたとしたら、それは紛れもなく「議論のための余地」であって、それ以外の何かのためではない。
その時、議論し尽くされた整備済みの土地か、これから耕す土地か、どちらしかないのだ。だから、「そこには議論の余地はないし、あったとしても議論の余地しかない」のだと言える。

そんなの当たり前じゃん、と思うことなかれ。
人って、日常の中で案外そういう無駄な土地を生み出してしまっているなと思うのです。こと、ビジネスに於いて、ありがちな「無駄会議」等で、余地ができたことで満足しきって、なぁなぁで済ませてしまって、それが本当の意味での「余った土地」になってしまうことが多々ある。
せっかくまだ耕す部分が残ってるのになぁ~、無駄だなぁ~、と感じることが良くあります。

で、それをたった2行で表現して、改めてそのことを指摘してくれた森先生やっぱり凄いなぁ、と思ったわけです。僕はそれを説明するために、こんなにダラダラと文章を書き連ねて説明してるのにね(約600文字)。



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