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台風でもくりゃいい

台風でもくりゃいい でっかいのでも きてくれりゃ
もうちょっとは 幸せになれるでしょうか
(「台風でもくりゃいい」 作詞:稲葉浩志)

「雨=憂鬱」って法則は誰が決めたんだろう?

ずっと不思議だった。

傘を差さないで歩くのとか、僕は結構好きだ。土砂降りなら尚良い。
何と言うか、ワクワクする。ずぶ濡れで不快にへばりつく服とは裏腹に、心は羽が生えたように浮き立つ。そんなことを言うと、今時では「不謹慎だ」なんて怒られてしまうのかな。念のため言っておくけど、他人の不幸にワクワクしてるわけではないからね。

僕の生家は集落の中でも比較的低地にあって、水が溜まりやすい。
母屋の隣の、曽祖父の代に使っていた離れ家屋と庭は更に1mくらい低くなっていて、台風なんて来ようものなら毎度の如く床上浸水していた。そのたびに、僕は服が汚れて母親を困らせるのも構わず、水没した庭で泥水に浸かって遊んでいた(囲まれた土地なので流される心配は無い)。
幼い僕にとって、それは充分すぎるアドベンチャーだった。

そんなことを思い出すので、雨は好きだ。

と、いうのは昔の話で、いつの間にか雨が嫌いになっていた。
なぜかと言えば、パートナーが天候に左右されやすい仕事をしていて、雨予報に対して異常とも言える程ナーバスだったからだ。雨の話題になるだけでピリピリされるし(なんて表現では生ぬるい)、実際に雨でも降ろうものなら、家の中は外以上の暴風雨が吹き荒れることになる。こっちまで一緒になって天気予報に神経を尖らせているうちに、気が付いた時には雨が嫌いになっていた。
正確には「雨予報」が嫌いになった、と言うべきなのかな。一度降り出してしまえば、それはそれで内心どことなくホッとする自分が居たのも、また事実だ。

そんな状態なので、子供の頃に雨が大好きだった話はずっと告白できないままだったし、乾燥続きの時期に雨が降ったとしても「恵みの雨」なんて言葉は口が裂けても言えなかった。

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雨が降っているのを自宅の窓から眺めつつ、これを書いた。
バルコニーから身を乗り出して灰色の空を仰ぎ、視線の中央から放射状に広がる雨粒を眺めていると、雨が僕の体を透過して僅かにでも澱みを洗い流してくれるような感覚に包まれ、身も心も軽くなっていく。

晴れやかな気分で雨に濡れていられたのは、いつまでの事だったろう。
ずぶ濡れで帰宅して玄関を開け、楽しかった第一声は何と発したんだろう。

今となっては思い出せない。記憶が雨に洗い流されてしまったかのように。

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英丸
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