梅崎春生へのあこがれ

梅崎春生のようになりたいと思う。
氏のように世の中を底から眺め、飄々と生きていきたいと思う。

氏は、「飲酒と無為」を好むと作品に記していた。

私も飲酒は大好物であるのだが、肝心の「無為」というのがなかなか難しい、というのが実感としてある。生来の貧乏性というのか、日常に於いて何事も成していないことがどうも憚られる。

確かに氏が生きていた時代とは生活様式も人々の考え方も変わってきた。
何もしない人間に対しては、かなり厳しい目が向けられていることも知っている。

だが、私は、そんな現代に於いてであっても尚、時代に即した上で氏のように生きたいと思うのだが、如何せん世間体やら世情というのに負け続け、流されている。

本当に梅崎春生のように生きるのであれば、そんな時代の中であっても抜け穴のような居場所を見つけ、世の中を達観して見通し、酒を飲み、くだくだと物を書いて暮らしているはずである。

そんなことを思っても、第一に私は梅崎春生の生まれ変わりでもないし、血縁でもない。何の所縁もないただのファンである。

だから、氏のように生きるということは、とどのつまり模倣であり、単なる真似事なのだろう。

ところが、最近になって、大好きなエレファントカシマシの曲を聴いていて、

「人生とは、憧れと決別していく旅だった」

というような歌詞を聴いてしまい、憧れを模倣するだけでも駄目だな、とも思っている。

別に文士として生きていきたいと思っているのではない。
氏のような生き方に憧れ、それを現代でやろうとすると、役立たずと嘲られ、単なる落伍者と呼ばれてしまうのが怖いだけなのである。

そこで何をしていれば落伍者と罵られずに済むか、と考える。

梅崎春生は大衆全般ではなかったものの、現代も一定のファンを持ち続けている。それだけでも、後世に名が残っていて、凄いことである。

つまり、何かしら他人を喜ばせるものを創作すること、それができれば、飄々と生きつつ、世の中に居場所を与えてもらえるのではないか。

そのように考えて、はたと考えが止まる。人を喜ばせるもの、それを生み出すための労苦を見過ごしていたのだ。

何かを創作する、そこには、生みの苦しみというものが付き纏う。世に謂うクリエイター、アーティストという人々がこれに悩まされていると聞く。

そして思う。果たして、俺は「アーティスト」とやらになりたいのだろうか。そんなお洒落な肩書が似合うような人間なのか、と。

それでも、どこかしらに居場所、抜け穴、隠居できる場所を求め、彷徨い、
自分に出来うる限りの仕事・創作をし、世の中に生きるための『免罪符』を貰いたい、と思う。

そう思いながら、今日も酒を飲んでいる。

一方で、「駄目だ、駄目だ」と言いつつもこうして悪事もせずに生きていられる、それだけでも儲けものなのだろうとも思う。

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