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モノを持つということ

僕が幼少期に住んでいた家は、二階建ての団地だった。一階が狭い台所と八畳ぐらいの居間で、狭くて昼間でも暗い階段を上った二階も同じ広さの畳敷の部屋だった。そこに母とたまに帰ってくる父(父は出稼ぎの土方だった)は布団を並べて寝る。僕は隅に置いた二段ベッドの下部分の中に布団を敷いて寝ていた。
母が片付け全般が苦手な人だったから、一階も二階も物が雑然と並んでいて、父が帰る前日には母と二人でそれをどうにかこうにか整理するというのが決まりのようになっていた。

そんな環境で育ったせいか、僕も身の回りが雑然としていることが多い。
本棚があっても読んだ本は床に積み上げていくだけだし、コード類は常に絡まったまま。さすがに今はないが昔は食べたカップ麺やペットボトルを放置したままにすることも多かった。


思考にもその傾向があるのか、必要と不必要を深く考えずに買い物をすることも多かった。
といっても何か高額なものを買うというのではなく、なかば趣味のようになっている文房具、特に筆記具と紙類を不必要にポンポンと買ってしまっていた。

文房具は「沼」といわれることも多く、筆記具などは各メーカーがそれぞれに努力して開発した技術が数百円のあの小さな道具の中に詰め込まれていたりする。
18年前に登場した三菱鉛筆・ジェットストリーム以降の低粘度油性ボールペンの流行や、パイロットの消せるボールペン・フリクションの登場など幾つかの画期的な商品の登場によって文房具沼は深さを増してきた。
個人的に好きなツバメノートなどのロングセラーも根強い人気があって定番品の良さを感じることもできる。

万年筆を集め始めたら終わりの始まりだと思っているので手を出していないが、ひとつ気に入ったものを見つけると同じペンの違う色も揃えたくなる。

そうして集めたボールペンが100本近くなった昨年の終わりにふと思った。

「これ絶対全部はいらないよね」

0.5~0.7のボールペン(+ブルーブラック)だけでも何十本もある。ノートもツバメノート、キャンパスノート、ロルバーン、ジークエンスなどが積まれている。
その中で使っているのは、読書記録をツバメノート100枚綴りに書くためのパイロット・アクロボール0.7mm黒と、手帳用に同じくパイロットのジュースアップ0.4mmブルーブラック、本を読んだ時のメモ用のフリクションノックゾーン0.5mm黒、雑記を無地のキャンパスノートに書き込むときのジェットストリーム0.7mm青と赤のサインペンぐらいのもので、他はそれぞれ別のバッグに入れているトンボ鉛筆・エアプレスと三菱鉛筆・パワータンク以外はペン立てとヨックモックのクッキー缶の中で眠っている。

つまりほとんどの文房具を使わずに無駄にしている状態だということだ。

これに向き合ったとき、モノに対して非常に申し訳ない気持ちになった。道具として生み出されておきながら、道具として使われない悲しみ。
道具は使用されてこそ輝くものだし、使い込まれた道具ほど格好いいものはない。土方の父の仕事道具を見て育った僕はそれを知っていたはずなのにいつしか忘れ去ってしまっていた。

自分が考えなしに買い集めて招いた事態に、僕は断捨離などする気にはなれなかった。モノを捨ててすっきりするのは自分であって、ゴミとして処分されたまだ使えるモノのことを思うと傲慢なような気がする。
なので僕は持っているペンやノートを使い切るまで新しい文房具を買わないことにした。リフィルを使い終えて自分の手にしっくりこなかった軸は処分するが、すべて使い切る。線の太さや色の濃淡も気にしないことにした。

約半年の間にボールペン5本とノート2冊を使い終えて感じたのは、日本(僕が持っている文房具はほとんど日本製だ)の文房具の素晴らしさだった。手にまったく馴染まないということはないし、ノートも滲んだり裏抜けすることはほとんどない。これは大事に使うべき道具たちだ。


ネットを見てみると中高生が5000円以上するような高級シャープペンを何本も持っていたりする。それはそれでモチベーションを上げるのに役立っているのかもしれないが、安くとも気に入った一本を大事に使うようなモノとの向き合い方をする人間に僕はなりたい。

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