ざっくり戦後日本ポピュラー音楽史②

鈍足な台風10号をなんとかやり過ごすことができてほっとしている。
贔屓にしている本屋さんなんかも無事だったみたいで良かったが、九州各地にかなり大きな爪痕を残していったようなので(特に竜巻が起こった宮崎は映像を見るにひどい有様だった)、少しでも早い復旧復興を願う。

なんとか無事だった僕は自分の書きたいことを書く。前回の続き。


前回は戦後から1949年頃までを追ってみたので、今回は1950年代の日本のポピュラー音楽はどうだったのかというのをざっくり見てみる。

異国情緒

1950年に最も売れた曲は山口淑子(李香蘭)が歌う「夜来香」(作詞/作曲・黎錦光)だが、作詞・作曲者からわかる通りこの曲は元々中国で作られたもので日本語の歌詞は佐伯孝夫によってつけられた。聴けばわかる通り今日の我々が想像する中華的なメロディで非常に異国情緒溢れる楽曲だ。切なさを掻き立てる山口の歌声も相まって大陸の夜に思いを馳せたりしてしまう名曲だ。
同年には他にも渡辺はま子が歌う「桑港のチャイナタウン」(作詞・佐伯孝夫、作曲・佐々木俊一)が発売されている。51年には同じ作詞・作曲家チームによる「アルプスの牧場」を灰田勝彦が歌いヒットさせている。他にも「上海帰りのリル」(歌・津村謙、作詞・東條寿三郎、作曲・渡久地政信、編曲・林伊佐緒)、52年には江利チエミによるカバーの「テネシーワルツ」、非常に重い背景を持つ「あゝモンテンルパの夜は更けて」(作詞・代田銀太郎、作曲・伊藤正康)が渡辺はま子・宇都美清の歌唱によって発売されている。
こうした楽曲たちから立ち上ってくる異国の香りは戦地へ向かった男たち、それを見送った女たちにある種の郷愁のようなものを感じさせたのだろうと思う。この流れは戦後十年となる1950年代半ばまで続いた。


都市と田舎を繋ぐ

52年の「リンゴ追分」(歌・美空ひばり、作詞・小沢不二夫、作曲・米山正夫)や53年、同じく美空ひばりの「津軽のふるさと」(作詞/曲・米山正夫)や、丘京子が吹き込んだものをはじめペギー葉山などが歌ってきた「南国土佐を後にして」(作詞/曲・武政英策)など、主に田舎の情景を歌いながら都会で暮らす者の寂しさを慰めるような歌の流行もあった。
戦時中に異国の地で故郷を思った心情を今度は集団就職などを機に都会で働く若者とその親の心を掴むかたちでヒットした。


映画黄金期とテレビの黎明期

NHKの本放送が始まったのが1953年2月1日だから、1950年代はまさにテレビ放送の黎明期でもあった。
様々なコンテンツの中で僕たちがなかば歴史の資料のようにして見るあの白黒のテレビとそれに老若男女が群がる姿はこの時代のものなのだ。因みに僕の母は1955年生まれで、子供時代(恐らく64年の東京五輪前だろう)はじめてテレビが家に来たときには近所の人たちが家に集まって見ていたと言っていた。

同じく母の昔話でよく聞いたのが映画の話だ。思えば他にメディアがなく、小津安二郎や黒澤明が現役の時代なのだから映画の隆盛は当然かもしれない。黒澤の『羅生門』が50年、小津の『東京物語』が53年、そして『ゴジラ』が54年と、国内外を問わず広範な影響を及ぼした作品が封切られたのがこの時期だ。ただ、このような名作映画は必ずしも今回の記事に則ったものではないので気になる人は こちら の松竹のサイトを見てみてほしい。
前述の「夜来香」なども映画主題歌として使用されたし、当時13歳の美空ひばりが歌い、同名の映画では主演も務めた「東京キッド」(作詞・藤浦洸、作曲・万城目正)が50年、NHKラジオ連続放送劇として放送されて大ヒットの後映画化された『君の名は』の同名主題歌が53年に発売されている。少し飛んで57年には石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』とその主題歌も盛大にヒット。この映画から当時の都市生活者にとってジャズという音楽がそう遠くないものだったことがわかるのも面白い。
大衆娯楽の王様として映画が君臨した時代、その影響力たるや現在では考えられないほどだっただろう。その強さはテレビが本格的にお茶の間に普及する60年代まで続く。


ロックの萌芽

1955年のアメリカ映画『暴力教室』と主題歌「ロック・アラウンド・ザ・クロック」のヒットをきっかけにロックンロールの時代が幕を開ける。チャック・ベリーやリトル・リチャードといった今ではロックの古典ともいえる特別なミュージシャンたちが活躍した時代。そしてビートルズ登場以前の王様エルビス・プレスリーが活躍した時代だった。
ロックンロールの日本における受容のしかたはジャズの時と似ていて、ルーツである黒人音楽としてではなく白人が演奏するロカビリーとして受け入れられていった。これは当時の情報の少なさとアメリカにおける人種差別も影響していたのではないだろうか。
とはいえ、小坂一也がプレスリーのカバーを歌ったのが56年、平尾昌晃・ミッキー・カーチス・山下敬二郎の「ロカビリー三人男」が登場するのが58年と、アメリカ本国とそれほどタイムラグがなくロック的な音楽は日本でも流行していく。その下支えをしていたのは、ティーブ釜萢やジョージ川口ら「日本ジャズ研究所」の面々、そして渡辺プロを立ち上げた渡辺晋ら進駐軍のクラブでジャズを演奏していたミュージシャンたちだった。


まとめ

ここまで1950年代の日本ポピュラー音楽についてざっくりと書いてきた。こうして書いてみると、やはり52年のサンフランシスコ講和条約発効を機にGHQの検閲を要さず、ある程度自分たちの思った通りに表現活動ができるようになったことがうかがえる。
新しい体制の下で焼け跡からの復興を進める日本人にとって、それまでの歌手のように専門教育を受けずに登場した美空ひばりは戦後民主主義の象徴のような存在だったのかもしれない。だからこそ戦後というものが強く意識にある世代(街中で傷痍軍人を見たことのある世代ともいえるかもしれない)にとって美空ひばりはいつまでもスターなのだろう。

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