7:追憶の食玩
2歳ごろ。
4つ離れた姉が幼稚園や小学校に通うようになると、当然ながら一人で遊ぶ時間は増える。祖母はいつもいたが、私と熱心に遊ぶタイプではなかったので、もっぱらなにか一人で遊ぶ方法を模索していた。
考えても思いつかないときは、イライラするのか、動物を模したクッションの尻尾にあたる紐の部分をしゃぶることで、平静を保っていたような気がする。考えごとをしながら爪を噛む、という人もいるらしいが、私はなにか口にくわえるタイプだったようだ。
遊び道具は、それほど潤沢にはない。
あるもので工夫する。ないものは、自分で創る。それが基本だ。
だからこそ、欲しいものを買ってもらえたときには特別に嬉しかったのを覚えている。ひとつものが増えれば、それだけであれやこれやと遊びの幅が大きく増えることになる。マンネリ化した現場に新しい風を吹かせる新メンバーが入ってきたようなもので、子供ながらにそういうメンバーが増えるのはとても貴重だと感じていた。
本でも遊び道具でも、ひとつのものを繰り返し読み、遊ぶ。自然と思い入れも強くなり、ついには手放せなくなってしまうというわけだ。
私には、この「一人遊びの時間」が、実は結構大切だった。このときの延長線上に意外なくらい、いまの創作があるとも思う。
どんなことをしていたのか思い返すと、やはりもともと家にあったものを使った遊びが多い。
黄色いタオルケットを使って、大きな卵焼きを作ってみる。これは母の真似事だろう。
座椅子を90度に曲げた状態でひっくり返し、回転する金属製の土台をハンドルに見立てて車を運転する。これは父の真似事だろう。
そして、姉の遊び道具だった「食玩」や「リカちゃん人形」を使った、ある種の人形遊び。
食玩というのは、いわゆる「グリコのおまけ」などに代表される、玩具付きのお菓子のことである。
昨今では玩具のほうがメインである感が強く「お菓子付きの玩具」と化しているようではあるが。
写真の黄色いバイクには『Dr.スランプ』の表記。
トースターは『リカちゃん人形』の家具だったと思う。小さい食パンもついていて、上の口に挿しこんだ食パンを、右側の黄色いレバーで押しあげて「焼けた感」を出すことができた。
黄緑色の小さなテーブルは4つ合わせると四葉のクローバーになり、これと同じ色のペンギンも親指サイズと小指サイズがあった。
こちらも食玩だったと思う。お菓子はチョコレートかガムだったような。
当時はこの『銀牙-流れ星 銀-』のアニメが放送されており、人気だったのだろう。私は放送されているのを知らなかったのだが。
いまでいう「タトゥーシール」のように、一度貼ってフィルムを剥がすと絵がそこに残る感じのシールも、姉が白いキャビネットに貼っていたのを覚えている。
せっかくの機会だから、近年描いた「銀」の絵を貼っておこう。
先述の玩具は、いずれも姉のものだった。当初は一緒に遊びつつ、姉が成長するにつれて興味が薄れていき、やがて私の遊び道具のようになっていった。
それら玩具のほとんどは、以前の記事で書いた「親戚行きか処分か」の際に手を離れてしまったのだが、例によっていくつか回収していた。
実はその際に、特によく遊んでいた小指サイズのペンギンを回収できなかったのが、いまでもちょっとだけ惜しい気持ちがあったりする。
ともあれ、私の想像力が養われたのは、これらの愛着ある玩具などが身近にあり、子供なりに「ああだこうだ」と頭を使って遊んでいたからだろう。
前に紹介したクマのパペットと同様「役割を与えて場面を描く」「物語を想像して表現する」いまの私のベースとなる部分を築くために、役立ってくれたのだ。
「あるものを工夫してどうにかする」という部分は、いまでも性質として強く持っていると自覚している。
たとえば、なにか困ったときに便利な新しいものを持ってくるのではなく、いまあるものを見渡して、その範囲でどうにかしようと模索するのだ。
だからなのか、自然としっかり準備をするようになった。
あらかじめ準備を整えておけば、困ったときに「いまある使えるもの=選択肢」が多くなるからだ。
***
当時のことを思い出すと、付随していろいろと思い出すこともある。
加山雄三さんの『君といつまでも』をBGMにまあまあ大きなトラックでやってくる、移動販売の野菜売り。パンや日配食品もあつかっていて、祖母がたまに買う「よもぎ餅」や「じゃこ天」が好きだった。
母や祖母に連れられて家の前に出ていたが、私は人見知りが強く、店主のおじさんとはほとんど喋ったことがなかった。
魚を売りに来る車両の、魚くささと、魚を乗せた荷台の棚の、青い袋とステンレスの輝き。
アジの塩焼きが戸棚にあり、昼に祖母と食べた記憶。
冷めていたこともあり、青魚特有のにおいが強かったことで、特によく覚えている。
近所の猫が庭に来ると祖母は「癖になるから」「死んだとき悲しいから」といって大抵は追い払っていたが、何度かその食べ終えたアジの頭などをあげたことがあった。
煮干しをやったときに実にうまそうに音をたてて食べる。それが嬉しかった。
猫の名前はジュリー。時代的に、ジュリーがニックネームだった沢田研二さん由来だったのだろうか。
赤い首輪をしたキジ猫で、手と腹は白かった。家の裏の通りの飼い猫だったと思う。
いまも猫と暮らしているが、私の動物好きはこのあたりからはじまったのだろうか。
近所の子供と、一度だけ自宅の庭で泥遊びをしたこともあった。
これについては、私はあまり楽しくなかった。
よその子供が庭にやってきて好きなようにやって汚し、自分の日常やテリトリーを荒らされたような気分だった。
思えば、私はこのころからすでに、人見知りに輪をかけた「人嫌い」を発揮していたようだ。
いいことも、そうでないことも、きっとそのどれもが、私の創作に繋がっていることだろう。
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