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掌編小説 | routine.


「水、飲むか?」
「・・・んーん、へいき。」

それは、日付が変わった頃。
ふたりのいつもの会話、彼だけがシャワーに向かう足音、馴染んでしまった一連の流れ。


あたしはいつも決まって要らないと応えるのに、筒井は毎回必ず律儀に訊いてくれる。それはやさしさなのだろうか、それとも、あたしの返答なんて記憶に無いのだろうか。後者だと思う。そんなのはもうとっくに気づいている。だけど、それじゃあんまり哀しいから前者だと思うことにした。他人の感情なんてどうせ分かりっこないのだし、どう解釈しようともあたしの自由なのだ。

ーーーーお水、なんかよりも。

アキも一緒にシャワー入るか?って一言そう訊いてほしいのに。その言葉はどれだけ待っていてもあたしの耳には届かない。筒井は律儀なひとだ。だけど、こまやかなひとでは決してない。まるで義務を果たすかのように、チェックリストをこなすかのように。筒井の中では、もはや生きることすらも業務の一環なのかも知れない。だから『アキを10日に一度くらい誘って抱く』ことや『事後に水分補給を確認する』ことはそこに入っていたとしても、『一緒にシャワーに入って余韻を楽しむ』ことは業務外なのだ。

今夜も果たすべき役割を終えた今、彼のルーティンは着々と帰り支度に駒を進めている。


・・・


筒井は、月曜日から金曜日までずっと、あたしの5メートル先に存在するひとだ。コーヒーを運んで、資料を提出して、必要なこと以外特に会話はしない。昼休みに会議室で、だなんていう甘ったるいことは漫画かドラマの中だけの話で。日々繰り返される8時間もの逢瀬は、パソコンと電話に向き合うだけで瞬く間に過ぎてゆく。


5メートル先、斜め前の筒井は取引先からの電話を受けている。いつもあたしの耳元で響く低い声。背が高い割には細身な身体つきだけど、程よい筋肉質。ダークグレーのスーツ、ボタンダウンのワイシャツ、ネクタイは日替わりで今日は薄いみずいろ。シルバーのフレームの眼鏡をかけた筒井に、その色はとてもよく似合っている。誰が彼を想いながら購入して、そして誰が毎朝結んでいるのか、なんていうことに興味はない。あたしが知りたいのは、シャツのボタンを外してネクタイを解いたときに見せる余裕のない顔だけ。どうせ解かれるそれを結ぶひとのことなんて、考えても無駄なことに脳みそを使いたくない。

ーーーー筒井の電話が終わった。きっと2分後にはあたしの名前を呼ぶだろう。さもその時気付いたかのような返事ができるよう、だけど必要そうな資料は自然とまとめておけるよう、あたしは目の前の業務に意識を傾ける。脳みそは、そうやって真に大切なものにこそ使うべきものだ。


・・・


「くちびるを合わせるだけなら全然性的な感じはしないのに、なんで舌が入っちゃうと途端にそうなっちゃうんですかねぇ。」


事の発端は、去年の忘年会。
3次会に差し掛かった深夜の煙たいカラオケボックスの端っこの席で、酔いの回ったあたしが隣の筒井にそう訊いたことだった。

最後に多くお金を出すためだけにそこにいるような筒井の姿は、低俗な花柄の壁紙と鮮やかな原色のタンバリンが並ぶその部屋には余りにも不相応に見えた。だけど意外なことに不思議と、何故だか居心地が悪そうではなかった。歌うでもなく、聴き入るでもなく。ひとり静かに、黙ってハイボールを飲んでいる横顔を眺めていると、彼がいま何を考えてるんだろうか無性に知りたくて仕方がなかった。でもそれ以上に、どうしても今すぐにあたしのことだけを考えてほしくて仕方がなくなってしまった。

だから、突飛なことを訊くために離れた場所から筒井の隣に移動した。部屋の音量に負けないように、だけど彼にだけ聴こえるような音量で。どうしてだと思います?と、突然問い掛けたあたしの顔を特別驚くでもなく横目で見たあと。筒井はハイボールの氷をカラカラと鳴らしてしばし考え込んでから、こう応えてくれた。


「まぁ、くちびるとか頬なんかは海外だと挨拶みたいなものだしな。だけどなんというか、相手の体内にお邪魔することっていうのは、それはやっぱり特別な意味のあることになってしまうんじゃないのか?」


ーーーー相手の体内に、お邪魔すること。

すこしの沈黙のなかで思考を巡らせて出てきたその言葉を訊いた瞬間、あたしは確信したのだ。


このひとに、筒井に、抱かれたい。


後先なんていらない。関係がどうなったって構わない。左手の指輪のことだって分かっている。
それよりも、今夜だけでいいから。

こんなにも何かを欲しいと思ったのは生まれて初めてのことだった。我儘言う子はうちの子じゃありません、と幼少期から母親が口酸っぱく繰り返したおかげで、いつしかあたしには身分以上の何かを求めるという行為がとても愚かなことに見えていた。慎ましやかで、身の丈に合った生活。それだけで十分なのだと思って生きてきた。


それなのに、今。
あたしは何処からともなく湧き上がる自らの渇望に震えた。変な言い方かも知れないけれど、ちゃんと生きている音が聴こえる気がしたのだ。あたしの身体の奥底に眠っていた、その音が。


・・・


そこから先は、案外簡単なことだった。
酔い潰れたフリをすればいい。無愛想な筒井だが、決して部下を見捨てないひとだということをあたしは存分に知っていた。狡くても汚くても関係ない。手段なんてものはただの過程だ。たったひとつの結果だけが欲しかった。


「怒って、ますよね?」

すべてが終わったあとで、ベットサイドに腰掛けて煙草を咥えている筒井の背中を眺めながらそっと尋ねた。あれほど渇望した割には、今まで経験した幾つかのものとそれはあまり大差ないことのように思えた。けれど、何故かとても心が満ちているということもまた確かな事実なのだった。


「いや、怒ってはいない。どう説明すればいいか分からないが、君と、こうなる気がした。」

ーーーー伝わった、と分かった。愛とか、恋とか、そんなありふれた言葉なんかではなく。
それは今宵、筒井とあたしのたったひとつの望みが寸分の誤差もなく同じだった、ということだけだった。それだけで他に何も要らなかった。


「水、飲むか?」
「・・・へいき、です。」


新鮮な水分を摂ってしまうと、薄れてしまうのが怖かった。ついさっきまで、あたしの体内に筒井がいた事実が。その記憶が。指先からぐんぐんと血がめぐっていることが分かって、身体中がどこもかしこも熱かった。うすい皮膚の下で、細胞が完璧な状態だと叫んでいる。こんなものを薄めてしまうなんて、あたしには到底勿体なくてできるはずがなかったのだ。



あの夜だけだと思っていた彼との時間は、それから数週間後にやってきた。新年会の後にどちらからでもなく、ごく自然な成り行きで二度目が遂行されたその夜。あたしはついに筒井と共犯者になったことを知った。互いにそれを知覚した瞬間、かつて経験したことがないほどの恐ろしい恍惚感が脊柱を駆け上がって一気に押し寄せた。

そこからはもう忘年会や新年会という、約束を託けるだけのイベントは必要なかった。ただただ、筒井の為だけにある純粋な夜。初めの方は月に一度か二度だったのが気がついた頃には10日に一度になり、多いときには週に一度のルーティンへと化してゆき。あの忘年会から一年の時間をかけてそれはじわじわと確実に、あたしの人生を隅々まで侵食していった。


あたしは、何も望まなかった。
我儘言う子はうちの子じゃありませんよ、尖った母の声が夜明けにはいつも頭のなかで響いている。ごめんなさい。しずかに祈りを捧げた。
赦されないたったひとつの我儘を手離さないことと引き換えに、あたしから欲しいものがすべて消えたのだ。関係、言葉、金銭、贈物、戸籍。そのどれもが意味を為すことなどないに等しい。

平時の8時間と、時折ご褒美のようにやってくる特別な2時間。このふたつの時間さえあれば。あたしはこれからも、慎ましやかに生きてゆける。


・・・


「アキは、今日もこのまま泊まってく?」

「うんそうしようかな、寝ちゃいそう。明日、ちょっとだけ遅出勤にしてもいいですか?」

「遅刻厳禁。」

「・・・はぁい。」

「帰るなら、タクシー代渡すけど。」

「冗談ですよ、大丈夫。」


バスローブを脱ぎながら、筒井は粛々とルーティンをこなしてゆく。ダークグレーのスーツ、ボタンダウンのワイシャツ、ネクタイは日替わりで今日は薄いみずいろ。

ベッドサイドに腰掛けて煙草を咥えながら、靴下を履く筒井の背中をしずかに堪能する。丸まった背骨を指でつうっとなぞりたい気分だけれど、やめておく。触れたら、もう離せない。


「アキもはやく寝ろよ。」

「・・・ネクタイ。」

「ん?なに?」

「曲がってますよ。」

「あぁ、帰るだけだしこれでいいよ。また明日。おやすみ。」


煙草の味がする軽いくちづけは、ルーティンのいちばん最後の項目だ。バタンっと重い扉が締まった残響の中で、かつての筒井のことばが谺する。
ーーーー挨拶みたいなものだしな。これは別れの挨拶ではない、おやすみの挨拶なのだ。



まぶたを閉じて、舌をぐるっと一周させる。
上顎、頬の内側、歯列の裏、下顎。

大丈夫、何ひとつ薄まってなどいない。体内にお邪魔されたままのあたしだ。細胞が、完璧だと叫んでいる。

そうしてたっぷり30分が過ぎた頃、素早く散らばった服を身につけて、あたしは甘い香りが詰まった部屋をあとにした。すてきな宝箱。今夜もありがとう、とそっと告げる。自販機で水を買ってから、髪の乱れもそこそこにタクシーに乗り込むとそれはまるで魔法の絨毯のように、空いた真夜中の道路を音もなくすいすいと泳いでくれた。


斜めに曲がったままのネクタイを、結んでなんてあげない。そんなことをすれば、あたしはきっといとも簡単に筒井を深く慈しみながら絞め殺してしまうと思うから。

「アキも一緒にシャワー入るか?」
もしもその言葉を訊ける日が来たら。たとえ独りっきりだろうと、朝まで宝箱のなかにいようと決めている。体内にお邪魔された痕跡を彼が洗い流してくれたあとでなら、甘い残り香もきっと愛おしく思えるだろう。




ビルの灯りが流れ星のように、窓に滲んでは次から次へと消えてゆく。きつくしまった蓋を開けて、真新しい水分をごくごくと体内に流し込むと身体が生まれ変わるような気がした。

帰ったらすぐにシャワーを浴びて、眠って、そうすればいつの間にか朝になる。そして平時の8時間をこなしていると、ご褒美の2時間がまた時折やってくる。人生なんて、その繰り返しだ。


5メートル先のあのひとは、明日は何色のネクタイをしてくるだろうか。目を瞑って、流れ星のなかであたしは微笑みながら想像を膨らませる。

あぁ、このままどこまでも泳いでゆけそうだ。




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