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深夜2時半、煙まみれの薄汚れたカラオケボックスで名もない恋は




その夜は、3年勤めたアルバイト先の「追いコン」が開かれていた。


わたしは、追い出される側のひとり。

3年間のうち最初の1年はフリーターとして、あとの2年は専門学生として、年間108万円の壁を優に超えるほどみっちりと働きつつ、3年連続で追い出す側の幹事もばりばり取り仕切っていたので、それはそれは丁重に追い出してもらえた。



1次会は毎年幹事が決めた居酒屋(1人4000円、食べ飲み放題、鍋はややこしいからNG、出来るだけ太い柱がない一続きの広い個室、ドリンク追加注文用のタッチパネルがあると尚良し)

2次会は年中御用達の海鮮居酒屋

この辺りで終電組は随時自由に帰宅

3次会以降は朝まで近くのカラオケを人数に合わせて数室予約(2次会中に部屋を押さえておく、酔っ払いが大量発生する前にお金を貰うのがマスト)



去年から「わたしの追いコンは任せた」と側に付けていた可愛い後輩が段取り良くその一連の流れをこなしてゆく様子を、賑やかな部屋の端でピンク色のおおきな花束(先輩はこういうピンクが好きでしょ、と1次会の締めで誇らしげに渡された)が酔っ払いたちに踏まれないよう気にかけながらぼんやりと眺めていた。


「だから、ビール瓶は余らないように飲み切ってから注文してくださいって!」

「もう、ここで寝ない!はい隅っこで寝る!」


顔を真っ赤にしながら、若い彼女が出来上がってゆく大人たちに向かって声を張り上げている。


いいぞ。その調子。
幹事が怯んだら負け、何度もそう教えてきた。



今夜、彼女はろくに食事もせず減らないウーロン茶をちびちび口にしながら、常にいちばん偉い人たちのテーブルのビール残量を必死に目視確認し続けている。


ホテルの配膳スタッフの飲み会は、厄介だ。
普段から気配りを生業としている人々が一堂に集うと気配りの先取りというよく分からない構図が生まれてしまう。気配りの先人たちに気配りを要求される後輩。仕事より断然重労働になる。



けれど、わたしが教えることはもう何もない。

ああやって声を張り上げることもない。
中途半端なビール瓶を誰かのグラスに注ぎ切ることも、大皿にちょっとだけ残ったポテトを小皿に移すことも、びちょびちょのおしぼりを返却しながら店員さんに謝ることも。


あの場所で、この人たちと、働くことも。





ソファの上に飛び乗ってタンバリンを鳴らしながらあれだけはしゃいで湘南乃風を熱唱していた人々が、1人、また1人と夜に溶けていった。


時計は、深夜2時半を過ぎた頃だ。

アルコールに強くないわたしはそこまでお酒を飲んでいなかったこともあって、眠気のピークを超えたアドレナリンでしずかに起きていた。


この時間になるともはや幹事は不要で、先ほどから後輩の姿も見えない。きっと遅くまで営業しているあの店にお鮨を食べに行っているのだろう。

端数の計算を抜きにして50人以上から多めに貰った会費のお釣りは、幹事だけが知る秘密のご褒美だった。それも去年ちゃんと教えておいた。



ピンク色のおおきな花束は萎れてしまっていないだろうか、そうっと指先で触れてみる。

瑞々しくはないけれど、未だつるりとしていた。
うちに帰ったらすぐに斜めに枝を切って水揚げをしよう、そんな明け方のことを考える。



いろんなタバコの煙と匂いが充満する、薄汚いカラオケボックス。

オレンジと黄色と緑のストライプの壁紙。
両隣から聞こえる誰かの寝息。


携帯の液晶画面を開くことさえ憚れるような深い暗闇の中で、控えめなヴォリュームのままその曲のイントロは突然始まった。





「 嗚呼 唄うことは 難しいことじゃない 」




3年間ずっと耳で追っていた、低い声がする。


酒焼けとすこしの疲れが混じる掠れたその声を聴いて、もうダメだと瞬時に悟った。



何故、今。

皆が寝静まった夜の闇で、薄汚れた部屋のいちばん離れた場所で、この曲を選んだの。






その人は、カニアレルギーだった。

その人は、パチンコと競馬が好きだった。

その人は、私服のセンスがイマイチだった。

その人は、笑うと八重歯が可愛かった。

その人は、おそろしく仕事ができた。

その人は、理不尽な怒りから逃してくれた。

その人は、みんなが憧れる人だった。




その人の彼女も、誰からも好かれる人だった。






すき、と言う前に終わってしまった恋はいったい何処に消えてしまうのだろう。


こころの中で、燃えたの?
あたまの中で、消されたの?


ただしく名前が付く前に「憧れ」だと言い張って、慌ててラベルを書き換えて。

彼女にはなれなくても、お気に入りの部下になれたらそれだけで良かった。


あれだけ気配りのできる勘のいいひとだから。
彼もそのことを知っていた。気づいていた。




たった一度だけ近づいた、いつかの夜。


同じタイミングで抜けた飲み会の帰り道に初めて自転車の後ろにわたしを乗せて、ブルーハーツをちいさく口ずさんでいた背中。

そこに頬を寄せることも、両腕で抱きつくこともできずに、すこしだけ迷ってから肩甲骨の下あたりに指を揃えて両手を置いた。


ここまでなら、まだ赦されるだろうか。
何に、誰に、赦されるのかなんて分からなかったけれど。



それでも、そこから。

揺らいだ気持ちが、伝わってきてしまったから。


だから駅で別れた。

その5分で、もうじゅうぶんだった。






歌うの、苦手だから。

3年間気づけばいつの間にか帰っていたひとが。
今日だって端っこで飲むだけで、そう言ってマイクも握らなかったひとが。


何故、今。

こんな真っ直ぐなこの曲を歌っているのだろう。





嗚呼 目を閉じれば胸の中に映る
懐かしい思い出やあなたとの毎日

本当のことは歌の中にある
いつもなら照れくさくて言えないことも




歌が終わる最後の最後まで一度も合わない目線が、どこまでいっても狡くやさしい、その人らしい気配りだった。


闇のなかでも、それが分かった。
分かってしまうほど、ずっとずっと見てきた。





残響が、谺している。


ピンク色のおおきな花束にじいっと顔を埋めて、不器用なラヴソングが滲んだタバコの煙を掻き消すようにその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


それは淡くて脆くて、けれどむせ返りそうなほど強くて、いつまでも鼻の奥がツンとした。



そしてわたしは、そのまま夜に溶けた。

次に目が覚めるときにはもう、きっとその人はいないであろうことを知りながら。





あさになったら。


深夜2時半、煙まみれの薄汚れたカラオケボックスに名もない恋を閉じ込めて帰ろう。


頬を伝うマスカラの跡は後で洗い流せばいい。

水揚げをした花たちが、ぐんぐんといのちを吸い上げてゆくその隣で。



だいじょうぶ。

明日は、これからはじまる。









百瀬七海さんのこちらの素敵な企画を拝見して、参加させていただきました!


音楽、香り、季節、場所。

思い出は不思議といろいろなものに紐付けされていて、何年経ってもふとしたことがきっかけですぐに蘇ってしまう気がします。



10代の頃の忘れられない、本気にも片想いにもなれなかった名もない恋の話でした。


素敵な機会をありがとうございました!




inspired by

「 歌うたいのバラッド 」
斉藤和義



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