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自分がされていやなこと



「自分がされていやなことは、相手にしない」


親にも教師にも、幾度も言われてきた言葉。
とてもたいせつな教えだと思うし、何も間違っていないと思う。


だけれど、それと同じくらいわたしは昔からずっと違和感を感じていて。どう言えばいいか分からない、でも、なんとなくその都度「はい」と口ではきれいな返事をしながらも完全に腑に落ちない気がする、そんな感覚。なんで引っ掛かるのだろう、とずっと思っていた。



「だって、自分がされていやなことと相手にとってのいやなことって、必ずしも同じじゃないから。」


とある日、ふと流れてきたTwitterでこんな言葉を見かけた。

そうか、と思った。


わたしがずっと感じていた違和感の正体は、この言葉がおかしい、のではなくて、それだけじゃ足りない、というこの補足だった。



この文章は「だからと言って、自分はいやじゃないから全然気にしません、というスタンスで相手に対して何を言ってもいいという訳じゃない。」という真理に繋がってゆくのだけど、ほんとうにすべてその通りだ。


想像力、の話なのだと思う。


自分がされた場合にいやだな、と当てはまることがあるとする。それは「不快」という感情を孕んでいる行為なのだから、きっと誰かにとっても同じく不快を与えることに繋がるだろう。だからそれは相手にもしてはいけないことだ。

ここまでをギュッと凝縮した、言葉。



そしてもう一方で、それと同じくらいたいせつなことがある。


自分にとっては特に何も感じないけれど、もしかしたら誰かにとってはこれは「不快」になるかも知れない。それを踏まえたうえで、発言や行動を自分の中で見極めなければいけない。

という、イコールではない場合のこと。


そんなこと言い出すと、何にも言ったり出来なくなるよ、というひともいるかも知れない。


だからこそ、想像力、の話なのだと思う。




実はいつだってわたしは目に見えない凶器を持っていて、誰かを傷をつける可能性がある、ということを他人事ではなくきちんと考えていたい。


そして、できることならば、

そんな目に見えない凶器を持っているわたしが届けられるものが、愛や、やさしさや、微笑みや、エールや、そういったほんのすこしでもなにか温かいものでありたいと、つよく願う。


その決意は、自分が危ないものを手にしていることを知っているからこそ、同時に堅く揺るぎないものになるはずだから。


・・・



幸せとは 星が降る夜と眩しい朝が
繰り返すようなものじゃなく
大切な人に降りかかった雨に傘を差せる事だ
そしていつの間にか僕の方が守られてしまう事だ



たいせつな言葉は、傘みたいだと思う。

必要のない時にはまるで必要ないけれど、ずぶ濡れになりそうなほど弱った時、それは1メートルにも満たないくらいのちいさな範囲を懸命に守ってくれる。差し出した傘はせいぜい目の前の相手ひとりしか守れない。けれど、それだけでじゅうぶんなのだとも思うのだ。そうっと差し出された傘に守られてきたことが、わたしには沢山ある。



今までの人生でまったく出逢うことのなかったような気づきや学びが溢れるnoteの街に、今とても感謝していて。

お顔も本名も知らないけれど、だいすきだなぁと思える方々がたった半年足らずなのに既にたくさんいらっしゃる。それは、そんな皆様が丁寧に紡いでこられた「想いのこめられた言葉」との震えるような奇跡的な出逢いがあったから。

やっぱり言葉の力ってすごい、そう改めて実感させてもらえたとくべつな場所になった。



言葉には、エネルギーが宿っている。
それはとてもしあわせでうれしくもあり、時に残念ながらひどく哀しくもある。

その本意を、ただしく知っていたい。

そして真摯に、向き合っていたい。










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