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後期高齢者と暮らすということ。

それは、きっと「老いを一緒に見つめること」だと感じている。

祖父は今年で85歳を迎えた。幸いにも特に認知症や体の不自由はないけれど、やはり加齢による体の衰えには抗えない。

1日1日祖父の体調や能力には差があって、体調の良い日、悪い日、記憶力の良い日、悪い日、そのふり幅が私がこれまで見てきた人達より各段に大きい。

体調の小さな変化、頭の働きのちょっとした鈍りがあった時には、きっと私たちは、どこかで調整をしているのだろうと思うけど、祖父の場合、その無意識で行っている調整をすることが多分難しく、ダイレクトに目に見える形になって表出する。

例えば、たくさんのことが起こると、記憶や時系列があいまいになってしまうし、寝起きでは頭が回らず、お仏壇の花の水替えやお供えの取り換えなど、毎日やっていることのスムーズさが日によって違う。

もちろん動くのも、食べるのも、考えるのも、私が今まで日常でかかわっていた人よりもだいぶ遅いのだけど、そのスピードも日によって違う。

今の祖父は、「前はできていたことができなくなる。やってみてはじめてそのことを目の当たりにする。」そんな自分を生きている。

そんな自分と向き合い、「情けない」と言いながら日課をこなしている。

もう何年も(何十年も?)使っている洗濯機の動かし方の手順はもう分からなくなったし、洗濯に使う洗剤の量や洗剤の種類もわかっていない。適当にボタンを押して動かし、目の前にある洗剤を適当に入れている。

一年ぶりにつけたストーブのチャイルドロックを外す方法もわからなかった。

先日、免許を返納し、大好きだったドライブも自力ではできなくなった。

住んでいる場所も田舎で、歩いて行ける距離にはほとんど何もない。運動のため、散歩をしているが、車で出かけて写真を撮り、絵を描くことが趣味の祖父としてはその最初のステップに大きく制限がかかることになる。

「できないことが増えていく未来に向かって進むこと。」老いを生きるのはそういうことでもあると思う。それをどう受け入れていくのか。

私にとって、祖父との暮らしは、自分の人生に置き換えてそれを考える機会になっている。

祖父のそれは、私が隣で一緒に見つめて受け入れていきたい。

できれば祖父自身も受け入れて、幸せに生きてほしいと思う。

でも、私がもし、祖父の立場だったら、昨日できたことができなくなる自分を受け入れられるのか、自信がない。だから、祖父の横で私がそれを受け入れていきたい。そうする中で私の何十年も先の将来、自分がそうなったときの心構えにもなったら一石二鳥だと思う。

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