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想い描く世界

私の創造していきたいこれからの世界は「一人一人が自分のいのちの真ん中を生きる社会」が作りたい…

短い言葉だけれど、この言葉に込められた想いを書き出していこうと思います。

ひとりひとりが「いのち」を生きている自覚を持つこと

私にとって今の社会で一番に悲しい出来事は、私たちが食事をしている食べ物がもう命ではなくなっていっていること

食事は生命の循環の要でもあるのに、
営利の手段として扱われ、
人は、人であることを忘れたかのように生産過程を飛ばすことに専念して、簡易、簡単にを求めてきました。

給食でも、ベビーフードでも、何かを犠牲にして生産性を伸ばした食品を口にする機会が圧倒的に増えてしまっています。

コンビニの普及、飲食の多様化によって、確かに手軽さは増しましたが、仕事中のお弁当にも夜食にも困らない時代になりました。

しかし、同時に食べる時間、作る時間、命を味わい感じて生きる時間が失われてしまっていると感じています。

それは、食事だけに留まらず「人間という生命」そのものが誰かの利用価値によって評価され、時間給で人生を切り売りされ、消費されているように見えてしまうのです。

多くの人は、子供の頃には、思いっきり遊びたい!と思ったことがなかったでしょうか?

自分の自由を満喫し、人と関わり、楽しい日々を暮らすことを、当たり前に願っていたのではないでしょうか?

それがいつからか、生きるために働く、働くために何かを犠牲にする、嫌なことをしてでも給料を稼ぎ、自分だけではなく誰かを養い、それさえも十分ではないと感じるような生活に身を置いてしまった方もたくさんいます。

私は手段と目的が入れ替わってしまった人たちが、自分のいのちを全うする生き方を選べる社会を創りたい。

人が「自分」を生きる自覚を取り戻すこと
高校生ぐらいからの年代層の悩みを聞いていると、未来に希望がありません。

自分の将来に、本質的な自由や生きがいをもって社会で生きるということ自体が夢見ることさえ叶わず絶望しているのです。

それは何故でしょうか?

「将来は自分のやりたいことをやって自由に暮らす」それが不可能だと思い込まされている社会に生きている。

「自分以外の誰かの価値や評価、将来への不安や可能性の否定」が子供たちに蔓延しています。彼らは「自分」ではなく「誰か」の世界を生きてしまっているのだと感じます。
親の、先生の、会社の上司の、暗いネガティブな思考の世界が真実だと思い込んで他人の評価を常に気にしながら生きています。

その世界を信じて育った世代が、親になりました。
大人になった人たちも、まだ「自分」と「他人」の区別もつかず、
自分の失った夢を追いかけようとする子供たちを否定し、教育してしまいます。

現実的に、という言葉を使って絶望を受け渡していく。
それは諦めてしまった親の幻想ではなかったでしょうか?
過去の記憶の投影にあけくれて他者や出来事を評
価・判断・批判・差別に明け暮れて
自己価値をその集団の中から見出そうと躍起になっていきてきた昭和・平成の世代が残した習慣。

もちろん他者との比較をしなければ自分が何者であるかを人は認識できないのも事実です。

しかし、自己価値の欠損の理由探しや社会的に居場所がない理由を見出すのに、他社との比較を使う精神性はまだまだ未発達な成長過程です

競争と比較で利用価値を測る社会はそろそろ終わってもよいのではないでしょうか?
たった一つの自分のいのちを、自分自身が生きるということに専念したら、何かを批判している暇なんてほとんどありません。

私は誰か他人の世界観を引きずって生きるのではなくて、自分の人生を自分で生きられる社会を創りたい。

その為にできることを探してきました。
ライフライン(生命線)の充実は欠かせません。
「多くの人たちはいとも簡単に自分の生命が脅かされていると信じてしまいます」
そうなると外的理由インフラ的な整備よりも「生きられる自信」を育むことが効果的でした。
畑作や採取狩猟、キャンプ生活など、自分は生きられるという経験が生きられる自信につながります。
もちろんインフラも重要です、衣食住が満たされていることで本能的に満たされる人はとても多いですから。
人が人として育つ理由の一つ「社会神経」の育成が欠かせません。
社会神経とは人が人として関わる社会形成の基盤となる神経です。効率化重視の社会では、この神経が豊かに育つ環境が損なわれてしまいます。特定の思想や価値観に依存する形ではなく、抽象的な人の気持ちを理解しあううえで「情緒を大切にする感性を養う時間や、心が触れ合える安全な人間関係性の構築がとても重要なカギになっています」

私の活動では NVC をはじめ、ワークショップグループや対話などを進めていくことで、エビデン
スを提供できるほどで統計的ではありませんが一定の効果を感じています。
致命的なレベルで思考停止して生きている人たちでも、この情操の回復の可能性はゼロではないと感じています。

生命は生きている限り、生きようとする力が働いていますので、
常にアプローチできる可能性だけは心にとどめつつ、自分の活動だけでは限界があることも感じています。
この神経の成長には誰か一人の共感的関わりは大きな因子となりえますが、それだけでは十分ではないからです。心が深く傷ついてきた人たちやそもそもの環境に「共感」という感性が養われることなく育った方には、より多くの経験が必要だからです。

私の経験上でしかありませんが、多数の人間から、数多くの場面で、共感に立ち会う経験があることで、受容体が育ち情緒の表現・受容に対する能力が向上していく傾向を感じています。

これらの要因を省いた社会を創っていく気は一切ありません。
心理的・身体的安全性を意識することができ、一人一人の命とそこから生まれてくる気持ちを大切に扱う人材の育成と環境整備の有効性は家庭内やワークグループなどの小規模の範囲では実行可能だと核心しています。

しかし、私一人の考えや行えることには限界があ
ることを常々感じてきました。

私が創造していきたいこれからの社会とは、同じように現代社会に問題を感じ解決の糸口を探してきた方々、そして既に実践してきた方々と語り合い活動していける場、コミュニティをたくさん作っていくことだと感じています。

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