見出し画像

他者目線でジャッジするのをやめて、わたしの絶対的な味方になろう。

いろいろ書いたんだけど…、最終的に、「他者目線で自分をジャッジして傷つけるのをやめて、わたしの絶対的な見方になろう」って思ったよ。

今日は、わたしのそんな記録のnote。

※※

私は、わたしのことをジャッジしてる。

明るい、元気、楽しい、ポジティブ…。
そういう陽の空気をまとったものは、良しとする。

だけど、疲れてる時、気分が落ち込んでる時、ネガティブモードに入ってる時の自分を、悪いものとしてた。

それは、わたしが一人で自分の時間を過ごしてる時には、良いものでも悪いものでもなく…、ただ『今日は~なんだなぁ』と思ってる。

疲れてる時なら、『ちょっと休もうかな』とか『自分の身体や心を緩めてみようかな』と思うだけ。
時には、この疲れてる感覚をそのまま楽しんでることもある。

そこに良い・悪いはなくて。
そのまんまの自分でいいと思ってる。

だけど、誰かと関わる時、誰かと関わることを想定した時、誰かとの『~しなきゃ』を考えた時…、そこに『疲れてる私』『ネガティブな私』『気持ちが落ち込んでる私』がいると、それを悪いことのように感じてしまう。

誰かと同じ温度になれない自分を悪者のように感じて…、後から一人反省会をしたりする。

そんな自分が、なんとなく嫌いだった。

『今日は調子がいい日だと思ってたのに、どうしてこの人と関わるといつも嫌な自分が出てくるんだろうな?』なんて考えたりもしてた。


1人でいる時には元気でも、誰かといる時にそうでない私が出てくるのは…、1人でいる時には『大丈夫』って自分に言い聞かせて頑張れてたのに、誰かといると、その『大丈夫』で自分を支えきれなくなってしまうのかなって。

他者の光に照らされて、自分の中の闇があぶりだされてるのかなって考えてしまうこともあった。

…なんだけどね、たぶんそれは違った。


エンパス…というか、相手の内側の世界を体感したり、表現したり、自分の中に投影してしまうことがある。
それが、自分のモノではなくて、相手のモノだったりすることもある。

あとは、相手との関係性によっては、そこに役割が生まれて、その役割を演じるために「ダメな私」を演じてる場合もある。

…だけどね、いろんなことをごちゃごちゃ考えても、なんとなく自分を守るための言い訳のように感じてしまう瞬間もある。

そんな時はきっと、私の頭の中に「他者の視点」というジャッジがあるからなんだなって思う。

その「他者の視点」が生まれたのは、私が生きていくための術だったんだと思う。

自分が傷つかないため。自分を制限するため。自分を守るため。
誰かに攻撃されるリスクを減らすため。恥ずかしい思いをしないため。

…いろんな理由があって、いつの間にか生まれてしまった、私の生きる術。
それはただの悪者じゃなくて、わたしのことをたくさん守り続けてきてくれた。

と同時に、自分自身を制限し、傷つけてきたモノでもあった。

だけど、これからのわたしには、もう必要ないのかもしれない。

…ちょっと脱線してたかも。

※※

実はね、5月11日に3記事書いたの。
で、この数日で公開した。

1記事目を公開した時に思ったんだ。

『こんな、元気じゃない私が書いたものを公開していいのかな?』って。
『疲れてる私は、自分でも何を書いてたのかわからなくて…、自分では悪い記事じゃないと思ってるけど、他者から見たらネガティブなヤバい記事なんじゃないかな?』って。

そんな自分に気づいた時にね、『人からどう思われるかを気にしてるんだな~』って思ったの。

わたし自身は、自分の書いたものを悪いものだとは思ってなかった。
「良い・悪い」ではなくて、書きながら『あぁ、そうか~』って思ったことがあったからよかったなって思ってた。

なのに私、他者からどう思われるかを気にした時に、すくに非公開にしようか悩んだの。他の2記事も、公開するのをやめようかと思ったの。

だけどさ、そうやって、勝手に他者の視点を想像して。
自分の書いたものをネガティブか、良いか悪いかジャッジしてるのは、わたし自身なんだなって思ったの。

だから、3記事とも公開することにした。

※※

本当はただ、そんなことを書くつもりだったんだ。
だけど、せっかくだから、このまま書いていこう。


他者にジャッジされてしまうことも多々あった。
自分軸で生きている時、ふいに、思わぬところから攻撃されると、ものすごく傷つく。
心をオープンに、開ききってる時ならなおさら。

そうやって傷ついて、何度も何度も傷ついて。いつの間にか恐くなってた。

だから、自分で自分自身をジャッジして、自分を守ってたんだと思う。無意識のうちに。

だけど、自分を守るためのジャッジは、わたし自身を傷つけてた。
だから、もうやめようと思う。

わたしは、わたしの感覚を信じて書いていく。
わたしは、わたしの絶対的な見方になる。

いつか思った『この人さえ味方でいてくれるなら、わたしは自由に表現できる。たとえ、誰に何を言われたとしても…』って。

だけどそれは、「この人」ではなく、「わたし自身」でありたかった。
彼に頼るんじゃなくて、わたし自身が、わたしの味方になる。
だから、わたしは自分で自由に表現していく。

わたしは、「わたし」という絶対的な見方がいる安心感の中で、自分らしく自由に表現したかった。

…この1年、何度も何度もそのことに気づいたつもりだった。
自分に『がんばろう』って言い聞かせてきた気がする。

だけど、今日以上に心からそう思えたことはなかったかもしれないなって。
自分の中で何かが変わって消えるのを感じてる、今日この頃。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?