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自分の住む町くらい 自分で守れ ばかものよ

4年ほど前、茨木のり子さんのあまりにも有名な詩 『自分の感受性くらい』を読んだ時、頭に浮かんだ言葉がある。

『自分の感受性くらい』

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木 のり子『自分の感受性くらい』 単行本  花神社 新装版 (2005/5/1)

Uターン起業してすべてが順調に行くはずもなく、自分の無力感を感じたり、あきらめの感情があったり、小さくまとまってしまいそうな時、この詩が気になって初めて詩集を買った。

自分が目指す世界と現実のギャップ、自分のやっていることのスピード感の無さ、器の小ささ、心の弱さにがっかりすることも多かった。

行政にまるなげのまちづくりや補助金に頼り切った人々への失望、故郷が衰退していく中で行動するべきだという勝手な使命感、キャリアを捨ててまでゼロから起業したから失敗したくないという焦り。

そんな中、茨木のり子さんの強く、厳しく、自分と向き合うことを突きつけてくるような詩を読んで、僕の頭に浮かんだのが自分に対してのこの言葉だった。

『自分の町くらい 自分で守れ ばかものよ』

自分で自分に言っておいて、当時の僕は僕の頭の上にハンマーが振り下ろされたと思ったぐらい衝撃を受けて、

「心が痛い……凹む……辛い……」

と感じてスッと言葉をかわし、Iphoneのメモ帳に封印したのを覚えている。

こんな強く厳しい言葉は今は思いつかないし、自分に言うのも正直しんどい。

今読むと、こんな世界の狭い言葉もないなと思うし、自分以外の人に対しては使いたくないとも思う。

「自分の町くらい自分で守れ!課題解決しろ!」と誰かが思っていても、

「地域にそんな奴はいないから、よそ者、若者、ばか者に期待しよう!」
というフレーズにいつの間にかなったりする。

若者からすると、上の世代から若い世代に期待されても、

「今の地域があるのは上の世代の生きた結果なんだから上の世代がまずはなにか行動してからいってくれよ、、、割を食っていて将来も食い続けるのは自分たちなんだけど」

と思う人も多いんじゃないだろうか。

一方で、上の世代からすれば、時代の流れや様々な出来事にほんろうされた結果が「いま」だろうし、

数十年前に人々が欲しい未来と信じて目指したものと「いま」の間に、30年、40年を経た結果として、ズレが生まれていることは当たり前だし、

大変な労働環境でめちゃくちゃ頑張った世代なんだからリスペクトしてほしいと思うんじゃないだろうか。

確かに人口の推移のようにある程度信頼できる予想が可能なデータがあるとはいっても、日々の生活がある中で短期的なものよりも長期視点でマクロ予想のことばかり優先して生きていられる人はそうそういないだろうし、少なくとも僕にはそれは難しい。

だからテレビのコメンテーターとかが、

「こうなることはわかっていただろ!次世代に問題を押し付けずに犠牲を払って解決しろ!」

と非難しているのを見ると、変化を生み出すためには必要かもしれないけれど、しんどいなぁと違和感を感じる。

なんだか自分が一緒に住んでいる家族やお世話になった地域の人々も批判されているような気分になったりしてしまう。

白状すればそう思ったことも、そう思うこともあるし、ちょっとずれるけどたまに映画「GO」の杉原のセリフを思い出したりする。

だせー!そんな貧乏話うんざりだよ。カニが食いたきゃ革命でも起こせばいいじゃんかくだらねぇ。そんな話で泣ける時代は終わったんだよ。つーかてめえらの世代でけりつけろよ。あんたら1世2世がぐずぐずしてっから俺らがぱっとしねぇんだろが。

映画『GO』 行定勲監督(2001年)

でも自分の短い人生でも、過去と比較すれば、計画はずれまくっているというか、計画なんてあってなかったようなものだし、予想すらできないことであふれているのが現実だ。

当時競うように目指して滑り込んだ外資系金融機関でのサラリーマン生活は、サブプライム、リーマンショック、欧州危機にほんろうされて、聞いていた話とはまったく異なる現実が起き続けたし、悲しい思い出も多い。

会社経営を始めてからなんて、自分が船の舵を握っていると思っていたら、実はそうでもないことの連続だったりで、やっぱり世の中は自分でコントロールできないことばっかりじゃんって思う。

ただ、それでもその時々にその他大勢とは異なる理想を描いて前に進んだ人々が存在したことで世界に変化が生まれていることも事実で、

だれもが世界を変えようと思う必要はないけれど、変えてきた人がいるということに思いをめぐらせてみてもいいんじゃないだろうかと思ったりする自分もいる。

そうじゃないと、自分は、生まれ落ちた環境と時代によって生み出されたプロダクトでしかないということになってしまいそうだし、何をやっても無駄という気持ちになってしまいかねない。

なにが言いたいかというと、

ほとんどそんなもの無いのかもしれないけれど、

もしそれぞれ自分がコントロールできるものがあるとすれば、それは、あきらめない方がいいんじゃないだろうか。

その範囲で自分なりの自己実現や自分の幸せを主体的に追求することは、わるいことではないんじゃないか。

ということな気がする。

僕の場合だと、まちづくりや地域づくりというぼんやりした愛と憎しみに満ちた世界で、会社経営=ビジネスを通じてできる範囲で、欲しいと思う地域の未来を創ることをあきらめない、といった感じなのかもしれない。

なんだか長くなってしまったので無理やりまとめると、

あの時自分に向けてメモした強く厳しい言葉には今も少し心が痛むけれど、

『自分の手の届く範囲の世界を良くできたらいいよね!』

ぐらいには受けとめて生きていきたいということ。

ひとりひとりに見えているそれぞれの世界があって、

それは大きくても小さくても良くて、

自分の部屋のベッドの中ぐらいの大きさだろうが宇宙まで広がっていようがそんなのどちらでもよくて、

というか関係なくて、

その「自分にとっての世界」の中にある「自分にとって大切な世界」だけは、きっと自分の手で良くすることができると信じたい。

だって、

ブレーキとアクセル、

なんならシートベルトも時代が壊してくるかもしれないし、

握りしめているハンドルは実は意味無くて時代のつくったレールの上を走っているだけかもしれないけれど、

ハンドルを握っているその手は、

目の前にあるその手は、

自分の手だと信じたいよね?


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