死後どうなるのか

私は死ぬとどうなるのか?を、常々考えている。一応その結論を、お話しようと、思います。。今論でも、意識の基盤の説明はしましたが、それゆえ、意識が、この世界を形成していると、考えると、少なくとも唯物論ではない、と思える
れと感覚の不思議である、今論でも述べたが、医学的には、感覚は脳の中で生じるとされるが、感じるのは接触した部位で、脳の中ではないと思えるからだ。それは脳がそうしているから、と反論されそうだが、だいじなポイントは脳で痛いと感じるのではなく、先端で感じられることだ。因果律でいうと、こういう考えはでてこない、どんなシステムも事故の発生とそのコントロール先で発見するように、通信先でわかるようになっている。手を怪我したら、頭の中で痛いと感じられるのが道理というもののはずで、手の先が痛いというのが、おかしいということだ。神経はこのように、先端触覚感応のしくみだ。そういえば、視覚もそうだ、見えるのは 脳の中とは とても思えない。体の外だ、外に見える、脳に映った映像が、外にあるように見える。不思議だ、感覚は味覚も匂いも聴覚もすべてそのように感じられる、それゆえ、時間量という一瞬の時間の不確定が神経と考えたわけだが、そのことは、今論に書いた。今お話ししたいことは、そのような生命の構造が、人間自体の生命構造ではないだろうか?死とは何か?で書いたが、人間を手の指で置き換えると、5本の指を、人間だと、しよう、その指先の中指君が怪我したとする、痛いのは中指くんだが、回りの他の指君はかわいそうとして同情するだろう、でも本当に痛いのはその指の持ち主だ。この考え方を、生命自体に、置き換えるのだ、そうすると、私に価する存在は何か?この感じている意識自体はその生命自体をこえて、宇宙、もしくは神か、意識場というそうした、超越した何かの指先に価するのではないだろうか?我々人間が神の指先のようなものだとすると、死はその神にかえるものではないだろうか。つまり意識は死なないのだ、意識は存続する、という結論になる。ちょっと待て!神とは何なのか それはあいまいでよくわからない、しかし、私の立場でいえば、それは意識の集合体で、意識場だといえる。この宇宙は意識の統合体で、見える宇宙そのものが、意識の形作ったものである。というても実態は一瞬の光の届く範囲であり、あとは時間の場である。これから意識論を構築するつもりです(考え中

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