我が輩は葦である、故にクルマで旅に出る
中国に古いことばで、〈三上(さんじょう)〉というのがあります。3つの上とは何かと云いますと、〈厠上〉〈枕上〉そして〈馬上〉となります。欧陽修という人のことばで、要約すると、「文章を作るときに、すぐれた考えがよく浮かぶ場所ベストスリー」ということになります。〈厠上〉とは、今で云うトイレのこと。洋式トイレが普及した現代日本においては、よく分かると合点のいく人も多いでしょう。洋式トイレに座って、たったひとりの密室でふとひらめく、ということもあるでしょうし、トイレで読書するという人もなかにはいます。そんな人は、トイレに本を常に置いているかもしれません。また、〈枕上〉というのは、読んで字のごとく、就寝するためにベッドに入っているときのこと。夜、眠りに入る前……ではなくて、睡眠後のスッキリと頭が冴え渡っているときと捉えた方がいいかもしれません。人の脳は睡眠中も活動していて、いろんな考え事を無意識のうちに整理してくれているらしい、というのは今でこそ常識ですが、いにしえの人はそれを経験則として知っていたのですね。そして最後の〈馬上〉というのは読んで字のごとし。馬に乗っているときを指します。冒頭でも書いたとおり、この欧陽修は、〈三上〉を「文章を作るときに最も適している場面」と云っていますが、つまりは「アイディアがひらめくとき」と置換して差し支えないでしょう。トイレとベッドと、そして乗馬は、思念が羽ばたく場所であるわけです。
しかし、乗馬というのは現在ではしっくりきません。現代において乗馬する人は、競馬の騎手か、高尚な趣味として乗馬を行う有閑階級の人ぐらい。
ただ、これはとても昔の中国のお話ですから、〈馬上〉を現代のあるものに置き換えてみるといいでしょう。そう、つまりは〈車上〉に置き換えて考えてみるのです。乗馬は基本的になひとりでしょうから、〈車上〉の場合もステアリングを握って、ひとりでドライブすると思えばよいのです。みなさんも、ひとりで運転中にアイディアが閃いた経験、ありますよね?
ところで、どうしてクルマで旅に出るか、これまで深く考えたこともありませんでした(もっとも、旅と云っても、取材や撮影が絡んだ旅なのですが)。給油とトイレのためにサービスエリアに入ることを除き、延々と運転を続け、横浜から九州まで走ったこともありました。紀伊半島の海沿いの一般道を走り、伊勢から大阪まで12時間以上かけて走ったことも(もちろん、横浜から伊勢までも自走です)。そんな強行軍ともいえるクルマでの数々の旅を思い返してみると、時間に余裕があるときではなく、仕事で首が回らないほど多忙を極めているときの方が多いのです。そんな時間の猶予のない時に限ってなぜ? と、自分でも振り返ると呆れるばかりです。
そこでふと思い当たりました。忙しい時こそ、いろんな事案の最適解を並行して導き出さなければならない場合が多いのです。つまり、忙しい上に、いつも以上に頭を働かせなければならない。しかも思いもつかなかったようなヒラメキが要求されるのです。書斎や編集部で、パソコンに向かっていたのでは、いつまでたってもヒラメキの神様は降りてきません。
しかし、ステアリングを握り、クルマを走らせていると、ふとした瞬間に閃くのです。コーナーを抜けた先に広い海原が広がった瞬間、見知らぬ町の錆びた信号機の前で信号待ちのために停車したとき、追い越し車線に車線変更してアクセルペダルを踏み込んだ刹那……。いくつもの関係のないと思っていた事案が、スッとひとつの目に見えない線によって結ばれることもありましたし、面白い企画が前触れもなく目の前に現れ、次から次へとアイディアが湧き上がってくることもありました。忙しいからこそ、クルマで旅に出る。これは私にとって、非効率的どころか、ものすごく効率的なことなのです。
では、時間的に余裕のある時は、クルマで旅に出たいという欲求がないのか、というとそうではありません。時間がないときは表層的なことしか考えられませんが、時間があるときは、深く思惟の底へ落ちていくことができるのです。日常では考え及ばなかった領域にまで深く思索することができ、気持ちにゆとりがあるからこそ到達できる思考を手に入れることができるのです。どちらかというと、長距離のドライブの場合にこうした状態になることが多いようです。
このように考えると、時間がないときは、ヒラメキや直感のような瞬発的な思考活動に適しており、一方、時間があるときは、分析や直観のような思考活動に適しているようです。
つまり、忙しかろうがヒマであろうが、パスカルの言葉の「人間は考える葦である」以上、私はクルマに乗って旅に出る、という訳なのです。次はどこへ向かってクルマを走らせるか、それを考えるのも実は楽しいことだったりしますしね。
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