見出し画像

連載小説 「影跡」 ①

         1

 当時私は、神奈川県の総合病院で小児科の看護師として勤務していた。三次救急を扱っていた為、それはそれはハードな病院で、毎日サイレンが鳴り緊急搬送がなされていた。私は小児科の病棟担当看護師であったため、救命の対応に駆り出されることほとんど無かったが、夜勤の日に子供が運ばれて来たりすると応援のような形で呼ばれる事もたまにある。が、それは例外で、多くの場合病棟看護師は救命処置の現場では足手まといになるので極力関わらない。それは関わる全ての人の為に。


 私の勤める病院は2交代制であったため、夜勤の勤務時間が長い。午後4時半から朝の9時まで。50名程度の看護師で、200名以上の小児患者の対応をしていた。
 その日私は夜勤であったため4時半に出勤し、日勤の看護師と申し送りをし、病棟内をラウンドしていた。すると後ろから割と大きな声で名前を呼ばれた。看護師長だった。あれ?今日は日勤のはずではなかったか?彼女は二人の子供を持つ母親なので、休みはしっかり取り、日勤の日は必ず定時で上がる。それでも仕事はしっかりこなすので、後輩の信頼も厚く、医師達からも頼りにされている、私が最も尊敬する先輩看護師だ。そんな看護師長が定時を過ぎても残っているなんてと、少し不安がよぎる。
「ちょっと、ハウス!」
彼女はナースステーションの事をハウスと呼ぶ。当然だが内輪での呼び方だ。彼女の名誉の為に言っておくが、口は少し悪いけれど、とてもキュートな人なのだ。そんな呼び方を、誰が聞いているか分からない病棟の廊下で発したことも、平時の彼女ではありえない。不安は5割増しとなり、重い足取りでナースステーションへと向かった。
夕方の小児科病棟はとても賑やかだ。小児科は特に面会者も多く、病室はもちろん、廊下やレクレーションルームなど、あちこちから子供たちの笑い声やはしゃぐ声が聞こえる。私の名を呼んでくれた子供に手を振りつつ先を急ぐ。
 ナースステーションに着くとそこには小児科部長と外科副部長がいて、二人とも腕を組みながら同じ姿勢で何やら真剣な顔で話している。その少し横に看護師長が立っていて、腰に手を当て、話を聞きながらうんうんと頷いていた。到着した私を見た看護師長は私に向かいハンドサインを送りつつ「ステイ」と声に出さず口パクで伝えた。犬かよ。病棟にはそろそろ準備を始める夕食の香りが漂い始めていた。配膳用のカートがエレベーターから降りてくる時の重い運搬音が廊下に響く。
しばらくして
「ではそういう感じでお願いします。」
と言い残し外科副部長が去っていった。話が終わると師長が私の方に向き直り、事情を説明する。
 四週間前、交通事故でとある一家が運ばれてきた。四十一歳の父親,三十八歳の母親、九歳の男の子だ。両親は緊急搬送中に死亡が確認されたが、男の子は外科、小児外科、小児科でチームを作り、懸命な治療の結果何とか一命をとりとめた。本来であれば、より専門的な小児専門のICUに転院させるのが最善の選択であったが、今と違ってその当時の小児ICUは、先天的疾患をもつ子供を優先的に診るため怪我などによる患者の受け入れは概ね断られてしまう。その為術後も院内のICUに移動し、同じチームで継続して治療にあたっていた。五日前にようやく意識が回復し、今夜小児科病棟に移ることになった。
「由良木朔(ゆらきさく)君。栢(かや)野(の)さん担当をお願いしたいのよ。」
師長は腰に手を当てたままそう言った。その場に残っていた小児科部長も腰に手をあて、二人でこちらを見ていた。二人とも背格好が同じくらいで年齢も近いので、まるで夫婦漫才のコンビのように見えた。
「分かりました。」
そして師長は分かりやすく割と大きめのため息をついた。
「治療そのものは順調だし回復もとても速いんだけど、ひとつ問題があって。」
そしてまた大きなため息をついた。さっきよりも一段と大きなため息だ。
「問題?何ですか?」
「朔君はご両親が亡くなったことをまだ知らないの。」
一瞬言葉を失ってしまった。
「ほかに御家族の方は?」
「いるみたい。母方の祖母が東京に。あと、親戚の人もいるみたいよ。叔父さんとか叔母さんとか、何人か。でもずっと疎遠だったみたいで、朔君にこの事を伝えるのにとても躊躇されているそうで。」
これはなかなかの問題である。小児科の場合、自身の詳しい病名について子供が知らないことはよくある。それは保護者が本人に代わって治療や投薬について医師や看護師と対話すれば問題ないからだ。だから何かを子供に告知する機会はほとんど無い。だが、両親がもう亡くなっている事をいずれ本人に伝えるというのは余りにも荷が重い。
「いざその話を朔君に伝える時には、なるべく血縁の方に立ち会ってもらえるように話しておくけどね。退院後の生活についても考えなきゃいけないわけだし。」
私は何も返事できなかった。
「栢野さんは普段通り、他の患者さんと同じように朔君と接してくれたらいいから。ただそのことだけ頭に入れておいて欲しいの。朔君がこの先治療に向き合うためのモチベーションを下げないために、しばらくご両親の事は伏せておく事になっているからそのつもりで。」
「え?そうなんですか?」
「うん。その方が良いだろうって事になった。彼ね、これからかなりハードなリハビリが必要になる。歩行だけでなく心肺機能についても。あと精神的な面でもね。」
そりゃそうだ。かなりの大事故だったと聞いている。
「私に務まりますか?」
私は率直に言葉に出してみた。すると師長はふっと表情を崩して私をじっと見た後に
「あなただから務まるのよ。」
そう言って私の肩に優しく手を置いた。
「私も、他のスタッフ達も全力でバックアップするから大丈夫。朔君が笑顔で退院してくれる日まで、いっぱい愛情注ぎましょう!あなた得意でしょう?」
私の不安を察してくれたのか、今度は私の背中をさすりながらそう言った。
「得意かどうかは分かりませんが、全力を尽くします。」
「普段通りね。」
「普段通りで。」

 午後八時から休憩をとり、午後九時にICUに迎えに行くことになったのだが、その休憩中、事故についてネットで調べてみた。とても衝撃的な事故であったため、当時ニュースやワイドショーでも連日大きく報道されていた。確か病院の正面入り口前にも、つい先日まで報道関係者らしき人物が複数いたように思う。
 由良木一家と愛犬一匹は、ドックランのある県内のサービスエリアにいた。そこが家族の目的地であった。一家は定期的にそのサービスエリアに愛犬を連れて遊びに来ていて、食事をとり、足湯に浸かるなどして二,三時間過ごす。由良木夫妻は飲食店を経営しており、家族で遠出をしたり、旅行に出かけたりする事が出来なかったため、お店の定休日にたまにこうやって近場に遊びに行くようにしていた。いつも留守番ばかりで淋しい思いをさせている可愛い息子の為に。割と長時間滞在するため、大きな駐車場の中でも建物から少し離れた脇の方にいつも車を停めていた。その日もたっぷり愛犬を遊ばせ、食事をとり、いつものスイーツとパンを買い、車に戻った。朔君は後部座席でチャイルドシートに腰掛け自分でシートベルトを締めようとしているところだった。両親は車の荷台を開け、愛犬の足を拭き、車に固定された犬用のキャリーケースに乗せようとしているところだった。その時、飲酒運転の大型トラックがブレーキを踏むことなく衝突し、由良木家の車を一瞬にして粉々にしてしまう。父親はトラックのタイヤに引っかかり、そこから駐車場の端までおよそ五十メートルにわたって引きずられる。母親は弾き飛ばされ、二十メートル先に駐車されていた車に強く全身を打ち付け、またその車も大きく変形するほどの衝撃を受けた。どちらもおそらく即死であった。朔君は後方からの強い衝撃でフロントガラスを突き破り前方に飛ばされたが、トラックに押された由良木家の車に再度引かれ、下敷きとなって見つかった。犬は変形した車の中で見つかった。そしてトラックもその後パーキングエリア駐車場内の壁に激突し、運転手は死亡した。おそらく衝突するまでほぼ減速することなく80k近いスピードが出ていたのではないかという事だった。幸いなのは、他に被害者が出なかったことかもしれない。由良木家が多くの車が止まっているスペースをあえて避けていたため近くに人も車もおらず、二次被害、三次被害は起きなかったが、それでも悲惨と呼ぶには十分な事故だった。その後、トラック運転手がアルコールを常飲していた事も分かり、雇用主である運送業者が書類送検された。
 ネット記事を読み進めているだけで胸が痛み、苦しくなった。夕方のサービスエリアに衝撃音が響き渡り、たまたまそこに居合わせただけの人達の日常をも簡単に破壊してしまう。そして残された九歳の少年は今も必死で生きる為に戦っている。しかしやっとの想いで生き残っても、生きることの苦しみをこれから味わわなければならないのだ。この世は常に不条理で、不公平で、不平等である。そんな事は知っている。でもそれをこの少年が背負う必要があったのか。何とも言えない怒りを覚えた。
 私は夕食にと手にしていたおにぎりをそのまま食べ進めることが出来なかった。残したおにぎりをコンビニの袋に戻し、ロッカーのトートバックの中に放り込んだ。そして今度は由良木朔君のカルテに目を通す事にした。
両足大腿部骨折、肋骨骨折、肺挫傷、肝臓損傷、脾臓損傷、その他骨折、打撲、捻挫複数個所。
 意識を取り戻しても、痛み止めがなければ瞬きすら苦痛だろうと想像する。でも彼には生きたいという意思があったのだ。これだけ全身に怪我を負いながらも生きてくれた。この世は決して苦しいだけではないのだと、この先思ってくれるだろうか。そしてわずかでも私にその手伝いができるだろうか。私に何かできるのだろうか。
 私はロッカーを再び開け、トートバックの中のおにぎりの残りを再び取り出し、急いで頬張りお茶で流し込んだ。そして目を閉じ大きく深く呼吸し、彼を迎えに行くために休憩室を出た。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?