unconscious bias&Mein Kampf

毎日、血を流しながら戦っている。

何と?

アンコンシャス・バイアスと。

闘争とか武器とか、勇ましい言葉が苦手である。しかし、本当の意味での闘争(軍隊だの武器だの戦争だの)にならないためには、日々闘争しなければならない。そのための敢えての「闘争」という言葉の選択だ。

新川和江さんの「わたしを束ねないで」1997年。この詩は、(新川氏言うところの)「束ねられて来た」ような私の心を解放した。扉が開け放たれたような気がした。

具体的に、誰が私を束ねているというのでもない。また、私が誰かを束ねている場合も十分にあろう。インターセクショナリティは常に新しい被害者を明らかにし続けている。

だが、この簡潔な詩によって、痛む心に一抹にでもロキソニンとなって私は癒されたのは確か。「1人じゃない」と。

詩については、専門家ではないので、テクニカルな議論は避けますが。

アンコンシャスバイアス。

私も、なるべく、視力や思い込みに頼らず、自由な心でいたい。

太っている人は、運動不足
小さい人は食べない
背が高い人は頼り甲斐ある
手が荒れている人は労働者
日焼けしている人は陽キャ
シャネルのバッグはセレブ
子どもがいる人は幸せそう
独身女性は寂しそう
おばさんは機械が苦手
若者は機械が得意
男性はDIYをする
女性は料理をする
靴が汚い人はだらしない
美人は幸せそう
女性は車の運転が下手
アジア人は勤勉
黒人はblablabla
白人はblablabla
アリンコはblablabla

🔸

このアンコンシャス・バイアスを逆手に取っている作品でとっても印象に残っているのは、

それでも地球はまわってる
というコミック。

ばあちゃんはキックボクサーも、

コンピュータおばあちゃん

も、そういうことだ。

それでも地球は…というコミックを最初に読んだ時は、お母さんが外に働きに出てお父さんが家で家事をするという設定が面白かった。が、それを知られた高校生の娘が、同級生から脅迫を受けると言う、些か眼球が飛び出す系のコミックだった。その当時(1985年刊行)は、専業主婦世帯が共働き世帯の2倍弱ほどいた1980年から、今から見ればバッテンの交わりとなる部分の1990年に向けて、順調に専業主婦世帯が減少し、共働き世帯は増えて行ったそんな時代。男女雇用機会均等法は1986年。まだまだ時代はハレーションの連続だったと思う。

おっと、また話が逸れすぎるが、

無意識のバイアスとは恐ろしいものである。
流しのタクシーに乗り込もうとして、運転士が女性だった時に、「この人長距離運転大丈夫かね?」と囁いた私の母の話はまぁ置いといて、人は偏見と無関係でいられない。
なるべく意識するように努めてはいるし、それはまさに私の内的な闘争であるが。

私自身、やらかし続けて生きて来た。

ずっと前にオランダだかデンマークだかの出身の女性とイタリアのユースホステルで話していて「顔が小さい」というのは賛称の一部であると述べた際に驚かれた。彼らはやけに「顔が小さい」と言われるのを訝しんだ訳だった。

また、イタリア留学時代には、30代くらいの奥さまが3ヶ月留学してると聞いて「ダンナさんの食事はどうなっているんですか」なんて尋ねたことがある。今では絶対に尋ねない。その人はお茶大理学部卒か何かのエリートであったにも関わらず、なんと愚かな発言だったことか。

自分は好き放題に世界を飛び回っていたくせに、結婚した女性が同じように世界を飛び回っていることには、思い切りバイアスをかけた発言をしていたのだった。羨望からか。

中国上海出身のご夫婦とミラノで同居していた時、彼ら夫婦には子どもがいるが、赤ちゃんの頃から親(赤ちゃんにとっては祖父母)が中国で育てていると。ご夫婦は、赤ちゃんが生まれてすぐに夫婦だけでイタリアに来て、10年ほど経つと。この、子どもを祖父母が見て親世代が海外で働く案件は、その後も多数のチャイニーズと知り合うたびに触れることとなる。ちょっと驚くが、それが彼らのスタンダードならばこちらのコモンセンスなんてたわいもないこと。

アンコンシャスバイアスは、平安時代の女性にも、戦時下の女性にも、かけられていた。

昔だから、一夫多妻制で自分の夫が浮気し放題でも傷ついたりしないんだろう

とか

戦争中だから、子どもが兵隊に取られ戦死しても悲しくないんだろう

とか。

そんな体たらくな私であるが、古今東西様々な文学や歴史書に触れる度、私の思い込みだったということが分かり、時代も地域も環境も超えて、人間は人間なのだと学んでいった。

とはいえ、今でも無意識のバイアスから完璧に解放されたとは言い難いし、おそらく死すまで学び続けることだろう。

人間、視覚情報が8割と何かの書物で読んだ。驚くほど視覚に頼った生活をしている訳だ。そうなると、全盲の人は、少なくとも私のような愚かなバイアスからは、フリーでいられるということなのだろうか?

自分がなぜ本が好きかと言うと、無意識のバイアスから比較的フリーでいられるからかもしれない。少なくとも視覚的なものから。

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