合唱コンクール

子どもの合唱コンクールを観に行く。

合唱曲が、今時で、かっこいい。
コントラプンクトが美しい。なんとも言えないハーモニー。会場中に響き合う。四声がカチリと合う時のあの全身が痺れる感覚は、たまらなくいい。メタルのシャウトとは異なる、繊細な声の織り成し。

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コンクールはクラス対抗。体調不良理由の欠席などもあるせいで、当日は3割ほど減った歌い手の数。人数が15人程度で4声合唱だから、かなりパートあたりの数が少ない。

とあるクラスで1人、バツグンに上手い子がいた。伸びやかで腹式呼吸ができていて、声量も豊かなソプラノだ。ヴェルディオペラの主役であるドラマティコのアリアを歌ったら、さぞかし聞き応えあることだろう。

しかし、

その声が大きく極端に響きすぎて、コーラスとしてはいささか具合が悪い。
バランスを欠いた歌声に、いたたまれなくなる。

自分が舞台に立った時と同じだ。自分では、全体が見えないのである。

逆に、特に目立ったプレーヤーはいないものの、そこそこ上手い子どもたちが上手に声を響かせ合うクラスは、安心して聴ける。
しかし、インパクトには欠ける。

優勝したクラスはやはり、各パート毎の声量のバランスがよく、かつ全体的に迫力があり、さらに抑揚も見事に表現されていた。
それに、合唱とは、より多くの人たちで歌うに限ると痛感もした。4人の上手い人よりも、40人のそこそこの人たちの方が、よい場合もある。

学校の取り組みの一環だから練習時間は少ない中、素晴らしいコンクールであった。親は彼らの成長に涙するばかり。

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ふと、自分の中学生、高校生の時のことを振り返る。
自分はコーラスが好きだったから、力を入れて真面目に取り組んでいたが、適当にやっていたり、口パクの友人もいて、その人たちに「真面目にやろうよ」などと声をかけるような正義感も勇気もリーダーシップも持ち合わせなかったから、静観し淡々と自分の練習をしていた。自分では自分たちの歌声を聞くことはできないから、全体的に下手か上手いか分からないが、でも、上手い人たち、合唱の好きな人たちと真剣に歌ったらさぞ愉快だろうなと思い、田舎の学生である自分は、仲間に恵まれていないなどと、自己憐憫に浸る愚かな若者であった。(もちろん自分の下手なことは棚に上げて)

今思えば、自分の置かれた環境を嘆くのではなく、合唱部に入るなり地域サークルに入るなり行動を起こせばよかったのだが、まぁその程度の好きだったのだろうか。

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そんなことを考えていたら、突如閃いた。

いつも私の忸怩たる思いを何か適切な例えで置き換えられないものだろうかと唸り続けていたが、このコーラスは、中々によい例えができそうだと。

何の例えかと言えば、明けても暮れても私の頭から離れない

民主主義の在り方

、である。

政治の話題が日常に出てこないのも
テレビニュースの話題にバリエーションを欠いているのも
国政の中央に世襲の高齢男性が多いことも
ブラック校則がなくならないのも
原子力発電にばかり頼っているのも
経済力が落ち込むのも
米国が日本の富を吸い上げるのも
ロシアがウクライナに侵攻したのも
日本人が選挙に行かないのも
ジャニー喜多川の性犯罪が裁かれないのも
安倍晋三氏が国葬になったのも

全ては、「日本に民主主義はかつても今も存在しなかった」その結果であると思っている。

それにしても周りと立ち話をすると、

日本は民主主義だと妄信的に思っている人は多い。

首相の悪口を言って捕まらないことと、選挙があることが、どうもその理由らしいのだ。

なるほど。
ちなみに普通選挙はロシアにもキューバにも北朝鮮にも形式的にせよあるが。あと、首相の悪口を言って捕まるって、どれだけ民主主義の低レベルな例えだろうか。

日本は「貴族制アリストクラシー」と昔(90年代?)は考えていて、その後、系譜は異なれど「寡頭制オリガルヒ」〜日本式特殊オリガルヒ?と思うようになる。
最近はアリストクラシーどころか、独裁制ではないかと睨んでいる。権力者が法で裁かれないなんて、司法が中央政府に乗っ取られているなんて、メディアが政府と癒着してるだなんて、権力者は脱税し放題、好き勝手に立法し放題だなんて、民主主義ではあり得ない。
とにかく日本は本当に民主主義なんだろうかと、常に疑い続けてきた。

一見民主主義的国家ではあるが、ただ自由主義経済のもと、経済的なアドバンテージによるハリボテ金満外交(実態なし、金の切れ目が縁の切れ目)に目眩ませられ、(人間、経済力は多少の不都合は覆い隠してくれるものだから)、選挙に行かず政治のことは難しいから考えず、怒るより笑って生きた方がかっこいいと洗脳され続けた結果の今であり、それは西欧型民主主義とは正反対。「世界で一番成功した全体主義」とも思う。

政治権力は目を離した隙に腐るものだ。腐る前に指摘しないと、一旦生えたカビはどんどん増殖する。指摘は笑っていては出来ず、怒らなければならない。怒る人たちを奇異な目で見て距離を置いておきながら、いざその怒れる人たちが権利を勝ち取ると、笑っていた人たちは厚かましくそこにフリーライドする。あまつさえ、フリーライドしたことすら忘れて、自分たちが勝ち取った権利くらいには考えている。

某大手企業に勤めていた時の労組委員長を思う。労組関係はどうも出世とは縁遠いと聞き、会社とやりたくもない神経を使う交渉をやってくれる人を尻目に、こちらはその勝ち取った権利のおかげの働きやすい職場で、のうのうと出世して行くなんて、おかしなシステムだと憮然としたものだった。その後、そんなものではなかったと聞き、なんだ、と肩透かしをくらったが。

まぁとにかくそんなのは、民主主義 ー民が主体ー ではない。

閑話休題。
民主主義を何かに例えようとして、


ガレー船みたいなもので、誰かがサボって楽していたとしても船は進むが、1人でも多く漕いだ方がいい。漕いでる人の中に、船底に穴を空ける人がいる。みんな漕がないと、止まる。本来なら、政治家は船頭さんであるはずなのに、日本のそれは、同じ船にすら乗っていない。日本の中央政府の面々は、ジェット機に乗って船の上を飛んで、船を上から見下ろしているかのようだ。


というようなことを伝えていたが、的確な例えではないな、下手くそな比喩だなと我ながら思っていた。ちょっと違うのだ。

国は、どこかに辿り着くものではないから。

それでふと思いついたのが「コーラス」。こちらの方が、やや実態に近いのでは。


・ひとりじゃできない
そう。合唱は、どうあがいても、他人が必要だ。アウトローでありたいと願い無頼をカッコつけたとしても、1人ではできない。
・協力し合う
そう。反駁し合っていては何も生まれない。話し合いの末、禍根を残すこともある。
・1人テクニシャンがいても、その人があまりにも並外れたテクニシャンの場合、よいコーラスにならないどころか、合唱曲自体が台無しになる可能性も。
・歌っている本人たち、演奏者は、全体が見えないし、聞こえない。
・暴走する
誰かがワザと早くしている訳ではないのに、徐々に早くなり、速度は止まらない、加速するばかり。指揮者も止められない。
・一度暴走したら、止まらない
加速し続けて、立て直しされることはほぼない。
・口パクの人がいても、わからない
歌い手が多ければ多いほど、口パクの罪悪感は少なくなる。そして、口パクする人も増える。なんとか合唱になるが、もちろん惨憺たる歌にはなる。
・しかし、みんなが口パクしたら、成り立たない。
・ソプラノが弱いと歌全体が崩れるが、ソプラノ以外のどれかパートだけが強いとそれも美しいコーラスにはならない。ソプラノは、やや強めが良い
・ピアノ伴奏も含め、ものすごい繊細で絶妙なバランスでできている
・例えよいコーラスだとしても、優劣つけるのは難しい。最終的には好みの問題。
・とは言え、優劣つけなければならないので、審査基準項目を定める。
・審査員が公正とは限らない
・歌うまで、分からない
・声の出ない人や聾者、言葉が分からない人などには工夫する必要がある

などなど、後半はちょっと例え先が迷い子になってはいるものの、前半は西欧型民主主義っぽくないか。

現在の日本の民主主義合唱団は、口パクどころか、舞台にすら立たない人が多い。
この民主主義コンクールでは、歌った結果がガタガタだと、最悪、人が死ぬ。

貧困でも富裕層でもない人で、民主主義に興味ない人たちは、声を上げられない弱者を見殺しにしているようなものだということに、気づいてほしい。

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日本人は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、坂本龍馬などの英雄が好きである。

首相について批判をすれば「でも代わりがいない」

これらの考えは、議会制民主主義ではない。
誰かものすごい人が1人現れて世直しをするような社会は、私にとっては空恐ろしい。
コミニュケーションを図りみんなの考える社会にして行きたい。そのコミュニケーションは、どう果たして行くべきなのか。

政治家たちが着々と、メディアを抱き込み、ジャニーズや吉本や秋元康などと結託し、公教育で人権と民主主義を頑なに教えず、パンとサーカス(すらも、日本にはあまりない)政策を推し進めた今、もはや取り返しのつかないところまで来てしまった。
構築されたシステムは、そう簡単には変化しない。日本の民主主義合唱団は、声を出さないまま、コンクールにすら出られないまま、朽ちてゆくばかりなのだろうか。

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