子どもの本について

他人の創作物についてとやかく言う資格は私にはとうていないけれど、

適切な批評だったら、ちょっとだけうなづいてほしい。
もし不適切なら、私の誤りを論理で指摘してほしい。
不適切ではないが、意を同にしないならばディベートしてほしい。
意を同にするが私の伝え方が悪いなら伝わるやり方を共に考えてほしい。

万が一、志を同じくしてくれる人がいるならば、とても嬉しい。

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絵本業界はことなかれ方式が良しとされているので、あまり批判は為されない。それにしても日本人は、クリティカルな意見を成すのも受けるのもなにしろ不得手である。自戒も込めて。

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本題はこうだ。
「"昔の絵本は良かった"と言われることについての考察」

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戦後間も無く(1960年前後)に作られた絵本が2023現在のロングセラーである。 

ぐりとぐら、じゃあじゃあびりびり、はらぺこあおむし、いないいないばあ、ねないこだれだ

絵本の販売数をほこるものたちを、総称して「ミリオンセラー絵本」と呼ぶ。
一番売れている絵本といえば『いないいないばあ』(童心社)は、販売700万部超とのこと。多少盛っているとしても、輝かしい数字である。1967年刊行だから、一年あたり10万部(以上)ずつ売れている計算だろうか。

この「ミリオンセラー絵本」トップ20くらいは、1970年代くらいまでに作られたものが多い。発刊から長い時間経過しているのだからミリオンセラーになりやすいのは当たり前と言えば当たり前。

なんだけど、「当たり前」ではないと思っている。その背景には、数多の絶版絵本が存在している。現在のミリオンセラーはその中のごく一部に過ぎない。

だから、1970年代くらいまでに作られた絵本が「売れているから」概ね優れているという単純なお話ではない。

あくまでも、「今、生き残ってる昔の絵本が、結果ミリオンセラー」だというだけのことだ。

その、生き残ってる昔の絵本と、今出た絵本と。
上手く言い表せない、なんとも言えない異なりをうっすらと感じている。

その異なりとは、失礼ながら、「昔の絵本は良かった」的な 
(然るに、現在の絵本は…ゴニョゴニョ的な)
良識のある勉強熱心な司書さんがついぞ口にするような、ある意味私が忌避している言葉が付くのだが、一体その気持ちは、なんだろうか。

50年読み継がれているという色眼鏡からだろうか。それとも馴染みがあるから、よく見えるのだろうか。小さなころに読んだという贔屓目からだろうか?高評価が定まっていることからの安心感からか。

絵や文章が上手いとか言う、テクニカルな理由ではあり得ないと思う。匠は現在も、たんまりと存在する。
それに、テクニカルなところに理由を見出すほど、「絵本道」だなんてものは存在しない。正解なんてないのだ。昔の絵本に、良い絵本である法則なんて、決してなかった。(もちろん今もない。)

それに、『かいじゅうたちのいるところ』刊行当時、アメリカの母親から「夕食を抜く罰を子どもに与える」描写があるから発禁処分になるところだったという例や、『ぐりとぐら』という痩せっぽちのネズミの評価は芳しくなく、50年後に500万部の日本で2番目のベストセラー絵本になることを想像できた出版社内の人は稀だっただろうし、『MAPS』も、『100万回生きた猫』も、こんなにベストセラーになると予想した人はどれだけいたのだろう。そういう私も、ヨシタケシンスケさんの本がこんなに売れると思わなかったし、『だるまさんが』だってここまで売れるとは想像できなかった。
私は先見の名なんて持ち得ないから置いといても、刊行当時に今のベストセラーを見極めた大人なんていなかったし、いたとしたらごく稀であったはず。


意図的にベストセラーを作り出せないのが絵本の難しいところで、「面白くなければどうしたって売れない」のだ。2015年に出た某ベストセラーも、50万部が頭打ちの数字だった。おそらく刊行直後に鰻登りに50万部まで売り上げ、その後は伸びていない。現在書店には影も形もない。刊行から10年も経たずに姿を消してしまった訳だ。所詮ロングセラーにはならない程度の実力の本で、著者は名を売り出版社も少しは実入があったが、それだけだった。ここまで一時的に売り上げが伸びたのには、売るための何かしらの操作があったと見るべきだろうし、一過性のものはロングセラーにはならない。

意図的にロングセラーが出にくいのは、特に子どもの本は、「買い手と売り手が大人で読み手が子ども」だからだと思う。
大人はどうしたって、子どもの気持ちには戻れない。

ちなみに「子どもっぽい作家」と「子どもの心を持つ、または分かる作家」とは雲泥の差である。

どの本が子どもの本として魅力的なのかは、結局、その辺の大人には判断できないんだと思っている。(専門家と言われる人も同様である)

時代が良かった、というのも、一つのファクトとして充分有効な言種である。60年代から続く日本の経済的興隆は、何より売り上げを後押ししただろう。今とは世界情勢も含め比べようもない。

でも、それを差し引いても、やっぱり昔に出た絵本は、

何かが、違う。違うんだ。

それを書店員になってから20年くらい考え続けているが、明確な理由は見つかった訳ではない。

因みに、エクスキューズではなく、現代の絵本が劣っている訳では全くないとはっきりお伝えしておく。優劣はつけられない。

優劣ではなく、絵本の内部に潜む、目に見えない何か。

オーラみたいなものが、違う、気がする。

そのオーラとは?

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そんな折、かこさとしさんの『からすのパンやさん』(偕成社)を読んでいて、ふと、その長年の問いへの回答が、小さくとも垣間見えた気がしたのだった。

小さな頃は作者なんか興味なく、本が自分にとって面白いか否かだけで手に取っていたが、

大人になってデータ化してみると、私は意外にも明けても暮れても「作家買い」ならぬ「作家読み」をしていた子どもだったことが判明。無意識のうちに、気に入った作家の作品を繰り返し読んでいた。
ディックブルーナ、せなけいこ、松谷みよ子、石井桃子、堀内誠一、そして、かこさとし。

大人になってかこさんの本を読み返してみると、1960〜1980年と言う、人権意識がまだ途上中の日本社会の中で刊行された本なのに、驚くほど人権や多様性について配慮されているような気がして、清々しい気分になった。

何しろ、ポリコレ棒を持って風紀委員みたいな、重箱の隅をつつくような嫌らしい取り締まりをするオバチャンな私が、一回もその棒を振るうことなく読めるのだ。これはすごいことで、なにしろ、論語だろうとユリシーズだろうと、バートランドラッセルだろうと、少しでも人権を損なう表現があろうものなら私のポリコレ棒は容赦なく振るわれる(もちろん本の内容そのものについては大尊敬しているから、高評価は変わらない。悪しからず)。

そう思うと、かこ作品はすごい。孔子先生にもホメーロスにも突っ込む私が、突っ込まずに心穏やかに読めると言う訳だから。

ちなみに、突っ込みたくてウズウズしている訳では全くない。重箱の隅をつつくようなことはしていない。あまつさえ可能であれば、何も引っかかることなく読みたいと願っている。「吉野源三郎を読んでがっかり」なんて経験、誰がしたいものか。

ちなみに古の絵本で私のポリコレ棒が振るわれる描写で最たるものは、なんてことない、朝ごはんの風景でお父さんが新聞を読んで朝ごはんを食べ、お母さんはキッチンにいる、というものや、冒険にお父さんと息子が出かけ、お母さんは温かい食事を作って家で待ってる(ひどい時は娘もそちら)と言った「超絶スタンダードレベル」なところが挙げられるかと。

かこさとしの絵本で有名な
『からすのパンやさん』の家族のありかたは、1970年代当時はなかなか斬新だったのではないだろうか。

他のかこ作品も眺めてみる。

多様性!だの人権!だのと、特に何かがテーマとして書かれている訳ではない。それどころか、ごく普通の子どもたちを巡るお話ばかり。深読みしたところで、逆さに振っても透かしてみても、何も出てこない。きっと、表層的な絵本の内容がその理由ではないのだ。

しかし、匂う。ほのかに香る、humanrightsとdignityが。

因みに、石井桃子や世田貞二にも同じ匂いを感じる。

この匂いの根源とは。

それは、

パイオニアそのものの気概。

そして、やはり第二次世界大戦というのが大きなキーワードになっていると見る。

1945年8月15日を境に、
昨日まで、反戦を口にした人を捕まえては「非国民」と罵っていた人は、
昨日まで、(データに基づいて)日本は負けると口にした人を多数で囲んでは仲間はずれにしたりした人は、

8/16からコロリと様相を変え「戦争には反対していた」「日本は負けると思っていた」などと声高に語り始めたし、なんなら自分は犠牲者だと同情を誘うパフォーマンスをする者までいた。
訳もわからず「民主主義!」と明けても暮れても言い張りだした。民主主義のなんたるかも知らずに。

そんな「時流に乗る人」を、恥知らずと罵るのは簡単だが、なんてことない、今の世にもそんな人が大多数である。

人生哲学を持たず。寄らば大樹の陰。日和見主義。軸足ブレブレ。
何しろ、民主主義が突然外側から降ってきたのだから民主主義の何たるかも分からない。そんな一見善良な市民たちは、あの時代から70年以上経った今だって、残念ながらマジョリティとして生き続けている。

かこさんのエッセイには、そんな大人たちが出てくる。

彼は、そういう大人たちをじっと見つめて、(自分のように)大人の嘘に騙されないように子どもたちへ、「絵本という形」を借りて語っていく方へ向かった、と。

もちろん、かこさんはただの線引き家ではないところが、また味わい深い。大人が悪かった、ぼくは騙されたと言う単純な、自己保身に悖る立場表明は感じない。
それどころか、終戦時に19才だった彼は、自分もまた逃れることのならない罪を内包し、地獄の業火に自ら身を起いていたように読める。

そしてその不毛な地から這い上がる遥か先に見えた光が、「子どものための本」だったのではないか。
すみませんが、すべて私の想像です。そして、かこさんを神格化している訳ではありません。
かこさとしさんだって、人間臭いところはあったろうよ。

でも、少なくとも、

食べられる草はあるかと探しながら散歩した人たち。
飢餓に苦しめられた人たち。
不条理としか言い連ねられない戦争というものに振り回された人たち。
生と死を分けたその一線を経験した人たち。
大切な人を失った人たち。
尊厳を根こそぎ持っていかれた人たち。

そんなどん底を経験してそこから思考を整えていった人の覚悟のようなものは、間違いないと思っている。

おそらく現在の私には想像すらできないが、怒りなんて言う軽い言葉でとても代替できない。

石井桃子、世田貞二、かこさとし、同世代というには幅広いが、戦争を一つのテーゼとして捉えただろう人たちの心根は、揺らぎがない。ブレていない。

まだ絵本作家という概念もなかっただろう時代。絵本が生業になるかならないかのところで真剣に取り組んだパイオニア。

そこには混じり気無しの「子どものため」が存在した。そして戦争で傷んだ子どもの心に寄り添って、また新時代を生きる力を育むという、口先だけでない心から出た言葉も。

がむしゃらであり、無我夢中であり、掛け値なしの真実がそこにあった。

今の作家に同じように期待しても難しい。だって、国家体制としてのどん底を体験してないんだもの。

絵本作家になりたい
絵本を書きたい

憧れから絵本を描き始める人と、

子どもたちの心を一番最初に考え、そこから何ができるかを考えた先に、(たまたま)絵本という形態があった

という人と。

スタートからしてこんなにも違う。

この、血の底から湧き上がるような熱量は、残念ながら、今、何かの片手間のように描かれる本とは決定的に異なることだろう。

前述したように、匠はいつの世にもたっぷり存在する。絵だけで見れば、やまわきゆりこさんやかこさとしさんの絵よりも技術的に優れている作家は数多存在するだろう。(なんなら、申し訳ないが、「元祖ヘタウマ」みたいな感じでさえある。)

違うのは、その、子どもの本に対する気持ち。

ある意味、相違点はそこだけ、ではないか。
そしてそこ「だけ」ではあるのだが、それが致命傷の如く、どうしたって超えられない一線ではないだろうか。

死線を彷徨った人の持つあの独特の穏やかさ。
生まれた時から、食べるものに不自由したことのない、何かを渇望したことのない者には、太刀打ちできないのだろう。残念ながら、戦後生まれの作家の本は、何十年か経ってはいるものの、ガラリと違う。

夏目漱石、森鴎外といった文豪たちは、恵まれた環境にあってこその文豪だった。一般人の知らない世界を描くことにより、支持を受けた。

ただ海外に詳しく芸事にも明るい人が、それを知らない人に向けてチラリと見せるだけで満足する大人の読者相手の本と、子どもの本作りは圧倒的に違う。

ここにやはり、絵本の独自性がある。

絵本を描く時には、子供騙し、小手先の技術では、きっとダメなのだ。もっとこう、湧き上がるようななんとも言えない気持ちが必要。

そして何より「子どもの目線」で描かなければ。

ここは本当に述べることが難しい。私もまだまだこれを説明するために研鑽を積まなければならないし、ただの仮説でしかない。いつか論文にもしたい。

今の作家さんたちも、決して「子どものため」に描いていない訳ではないだろう。
それに、土臭くのたうち回るように作られた絵本ばかりが名作でもないだろう。
だけど、やっぱり、本気度が明らかに違う。

この本気度。
戦争を経験していなければ得られないのだろうか。飢餓に苦しめられた経験を持たない我々には、なす術もないのだろうか。

私はひとつだけ、あるように思う。
それは、

社会、世情、構造というものを見据える力である。

昔の作家にあって現在あまりない視点と言えば、政治的視点であると、ここは断言する。1950年代くらいまでは、日本だって確実に社会運動が活発であった。
子どものことを本当に考えて本を作るならば、子どもたちの権利を奪うような政策を提言する政治家に票を入れる訳がない。絵本というファンタジーをモノすためには、逆にドス黒い政治経済に浸り切ったリアリストの視点が不可欠であるとさえ、思う。

因みに政治的視点とは、右左保守革新ノンポリ含め、そう言った狭義の話題ではないことは付け加える。別に主義主張はなんだっていい。

ここで指摘したいのは、
「政治?知らない」なんて平気で言う大人である。

政治に興味がない人は、人権に興味がないことと同義ではないだろうか。そして子どもとは、常に時代の犠牲になってきた、人権を意図的に軽んじられてきた存在である。子どもの本の界隈にいる人で、政治経済に興味がない人は、子どもの本のなんたるかなんて語ってほしくない。

子どもの本を作り広めるために大人ができることは、子ども独特のファンタジーの世界を頭に描くためにと、政治経済に盲になることではない。私は逆に、政治経済から身を引き話題を避けるような幼稚な人たちに、ファンタジーなんて高尚なものは描けないだろうと考えている。言い過ぎかもしれないが、少なくとも幼稚な人には子どもの本なんて不可思議なものは描けない。

そしてロングセラーを守るのと子どもを社会的構造から守るのは、重なる行為だ。
子どもの人権を阻害してくる権力者を見据えて批判すること、そして真の人権を語る権力者を育てること、つまり、子どもの盾にならねばならぬ。

作家や編集者に、時折、政治の話題(ニッチなニュースじゃないよ、その時のトップニュースだよ)を振って、知らないと言われると、頭の中で、欽ちゃんの仮装大賞の不合格のジングルが鳴る(古い?)。

国会すら見ない人に、ロングセラーなんてものせないだろうと思う。ごく一部の天才を除いては。

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