本が好きな理由

なんでこんなに本が好きなんだろう。
活字が好きで広辞苑やチラシ、図鑑も好きというのもあるけれど、やっぱり物語が好きだ。

幼い頃から変わらない。

その理由を探りつづけていたとて、これといったものにはなかなか巡り会わない。

監督気分になれるから?というのも一つある。
自分で映画を創るなんて夢だ。しかし本を読むと脳内で映画を創ることが可能だ。しかも徹頭徹尾自分好みの。

脚本家が用意した脚本を、好きなようにプロデュースし、演出し、配役し、音楽、カット割り、尺の長さも自由自在、ときたらワクワクする。誰も私の脳内は覗けないし、ダメ出しもされない。予算も不要だからスポンサーの意向をお尋ねしなくてもよい。世界一の美男も美女も美味しいご馳走も美しい建物も何もかもカスタマイズだ。

指輪物語の映画もとても良かったし、あそこまで行くと私もかなり映画の残像を引きずるが、それでも頭の中の方がリアルな絵よりも自分的には勝るのだからピータージャクソンには悪いが愉快なものだ。

紙の本かデジタルかそれともオーディオブックか。今のところいずれも楽しみは共通していて優劣は見られないと思う。

これは視覚に頼らない物語の楽しみ方と言うこともできるが、不思議なもので、実は活字の並びも「視覚で楽しんでいる」のだから面白い。読むという行為は、絵画を楽しむかのような視覚芸術にもつながるのだ。

絵本や挿絵がふんだんに施された幼年童話も、少々異なるのかもしれない。

とは言え、映像とは明らかに物語の受け止め方は違う。

ちなみに、書籍は自分から積極的にアクセスしなければならず、楽な道はあり得ない。楽に読書をしたい、と「⭕️分で読める〜」というものを手に取ったとて、それ自体が読書とかけ離れているのだと思っている。自分の意思で本の扉を開き目で字を追う(または耳を傾ける)そして考える、この作業は楽ではないかもしれないがそれしか本の楽しみを味わう方法はない。

例えば今後テクノロジーが進化して読んだり聞いたりするのではなく情報が直接脳に注入される時代が来たとして、それは私の読書ではないと思う。苦労してこその読書だから、見たり聞いたりしないと意味をなさない。これは生来のM気質から来るのかも。

そんな私は物質第一主義時代に育ったゆえ、やはり書店や図書館に足を踏み入れるとワクワクする性質を持つ。

書店はその中でも猥雑で「なりわい」を感じ、店員の「売りたい」という気持ちが熱く重くドス黒いほどに伝わってくるため、図書館よりお気に入りだ。

まるで、野外フェスみたいな獣的魅力がある場所である。フジロックのように、お目当てのバンドもあればたまたま出会う音楽に意外にも感動したり。
対バンならぬ対本?探さぬ本がまるで私に「買って」とプロポーズしているかのような圧を感じ、そこからまた新たな本に出会うのだ。

フジロックは入場料が必要だが書店は基本的にフリーだし、毎日でも、好きな時に行けるのだからこんなに魅惑的な余暇の過ごし方もない。

私はある意味想像力が貧困なのかもしれないが、本屋や図書館の、あの本の海に囲まれる経験、物理的に圧倒される感じはやっぱり実際に身を置いた方がより迫ってくる。

caponordやウユニ塩湖、タンザニアサファリも実際に経験するに越したことはない。あの感じは、VRやARはどうしたって劣る。否定する訳じゃない。体力的に経済的に暮らし的に、どうしてもウユニ塩湖に行けない人というはいて、その人たちの体験としてVRは効果的だ。

TDRのsoarin'も、私は空を飛べないからとても楽しい経験をした。

でもやっぱり実体験とは、例えばノールカップやキリマンジャロ登山、アンコールワットやチェチェンイツァとか、

そこに到達するまでの調査や手配にかかる時間や手間、思い通りに行かない時の不安感、到達してからも何か事故があって命を失うかもとある覚悟を持って臨む、そんなようなことを経た上での体験だし、第一、目と耳は仮想現実で味わえても、巻き上がる砂埃に鼻をやられたり自然の大きな匂いに包まれたり注意力散漫でうっかり見どころを見逃したり(後で友人にあれ見た?と言われ見逃したーー!なんてやり取りもあるし)暑すぎ寒すぎで気分が変わったり、ものすごい虫の大群にイライラしたり数日シャワー浴びないことによる気持ち悪さや髪の毛のザラザラ感、雨上がりのシットリしたところで足を滑らせると言った、湿度や温度、匂いや肌触り、体感、そう言ったものはVRには無い。いや、作れるのかもしれないけれど。

おっと話が壮大にそれた。

ということで、やっぱり実体験はできたらした方が良い。これはたまたまウユニ塩湖とかの話をしてしまったが、日々料理をしたり子どものうんちを処理したり洗濯物をキレイに干したり雑草を抜いたり繕ったり、実体験とはそんなことである。
今はお金を動かしたり引っ張って来たりくすねたりするのが上手い人が富裕層であることが多いが、日常手足を動かしている人のあのえもいわれぬ魅力には勝てない。

なんの話だ。
そう、本屋さんや図書館の本に囲まれる体験は、なるべく実体験として得た方が私は良いということ。

本屋さんも図書館も、なにせリアルがいい。

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私に取って本とは自分の内面に向き合うきっかけをもらえるものであり、そこには未知なるものへの好奇心しかないし、文体を参考にして自分の発言をできる限り伝わるものにするための肥やしにしたり、新しい、または粋な言い回しを取り入れて自惚れてみたりと、自己鍛錬の一環の側面もある。
本を読めば自己対峙の始まり、ということは、私にとって読書のモチベーションの一つであることは間違いない。

ただいずれにせよ、私がそれが良いと思って本を読んでいるのであり、それが本当に良いのかも判断できないし、全ての人にそれが当てはまるとも思ったことすらない。

だから、「読書するとこんなに良いことがあるよ」と他人に言ったことはないし言いたくもない。読書するとどんな良いことがあるかは個人的な体験で、それは人の数ほどあるはずだ。一つであろうはずもない。
そしてさらに、読書すると「良いことがあるかどうか」すら、懐疑的である。つまり、読んだ分だけなにか役にたつことに繋がったりするのか、という問いかけである。

これは巷でよく見かける読書推進活動にも一石を投じてみたくてウズウズしながら20年ほど経ってしまっているし今後も発言の機会も無さそうだが、

そもそもなぜ読書推進活動を国や教育委員会が行うのか。
そこには何か裏があると見た方が健全で、例えば団体からキックバックがあるとかの方がまだマシだとさえ思っている。

もしも「本とは何か」「本を読んだらどうなるのか」という繰り返しの思考無しに、ただ「本を読め」と政府が言っているだけなら、いや、盲目的に「本はいいものだから小国民よ本を読め」みたいな思想だったとしたら?
大日本帝国みたいな「明るい思考停止」はまこと恐ろしい。

しかも読書推進アンケートを見るに、国からは「コミックは読書に含まれません」という線引きが為されているようで、はて、読書とはなんぞや?と改めて考える。

私は広辞苑を日がな一日眺めていることが好きだ。これを読書とはとても言わないが、お上から「これは読書ではありませんよ」とは言われたくはないものだ。
国がこれは本、これは本じゃないと決める。さして根拠なく。これは実はとても危険ではなかろうか。

私にとって本を読むとはもちろん知識を得ることもあり人生を豊かにするものであることは間違いないが、どう豊かにするかは私が決める。
広辞苑をめくりながら新しいことを思いついたりする、それは豊かな読書と言っても良いだろう。

ゲーテだのニーチェだのスピノザだの「大学生必読書」は世に連れだが、トマスマンとアトウッドに優劣はつくのか。はたまた小林秀雄と医学書はどちらが良いかだなんて誰かに決められて楽しいのかどうか。

さらに言えば、もしも国が、読書としてトマスマンは良くてコンマリは良くないと言うならば、安倍晋三が正月に読む3冊があのようなタイトルであったことが、国民へのメッセージとして私たちがどうとらえるかをもっと考慮すべきだし、

だいたい理工農を優遇し優先した政策をあからさまに打ち出している分際で、また、人文系特に教養系をそれこそあからさまに冷遇した政策を次々に繰り出しておきながら、

いい本を読め

だなんて、なんの冗談かと思うのである。

国の思う「子どもに読んでほしい本」からコミックや図鑑、参考書を省くなら、その理由や思惑をきちんと民主主義に則って説明責任を果たしてほしい。

とかくこの政府のみなさんは、アカウンタビリティーということが理解できていない。
それにアカウンタビリティー云々をさて置いても、国会ウォッチ野郎としては、委員会や国会審議の言葉を聞いているだけでみなさんが読書なんて本当は微塵も興味がないのだということが手に取るように分かる。

そんな人たちが主導する「読書推進活動」とはと首を傾げるばかり。

燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。
私のような小物には、分からない。どうぞ説明責任を果たしてくださらんか。じいさんや。

全国の図書館で非正規雇用の職員が増えていることを受け、日本図書館協会(日図協)など図書館関係7団体や識者らが6月5日、待遇改善をうったえる集会を東京・永田町の衆議院第2議員会館で開催した。集会には、超党派の学校図書館議員連盟の国会議員らも参した。

日本図書館協会の統計によると、公共図書館や学校図書館で働く職員のうち7割以上が非正規雇用となっている。こうした非正規雇用職員の多くが女性で、低賃金で有期雇用という劣悪な待遇を余儀なくされている。

集会では、各団体が非正規雇用の職員の現状を報告するとともに、安心して働き続けられるよう待遇改善を求めるアピールを採択した。(弁護士ドットコムニュース・猪谷千香)

●「若い人が働き続けられる仕事になっていない」

この日開催されたのは、「これでいいのか 図書館 担い手にまっとうな待遇を求める院内集会」。各団体が実施した調査などを報告、公共図書館や学校図書館の職員を取り巻く厳しい現状が浮き彫りになった。

日図協では、学校図書館職員を対象に、2023年11月から2024年1月までウェブで調査したところ、893人から回答を得た。回答者のうち、女性が9割以上を占めており、年齢も40代と50代が多かった。

8割以上の人が司書資格を持ち、教員免許を持つ人も3割いた。しかし、正規雇用は2割を切っており、回答者の6割が、配偶者など自分以外の収入源が主な世帯の収入源であると回答している。

また、この調査では、回答者から「とにかく給料が低い。生活できない。能力がある司書がいても、図書室を作る予算もなく、勤務時間も給料もパートアルバイトの扱いで」「図書館担当の先生から、司書なんかTSUTAYAの書店員だと皆思っていると言われたことがある」「交通費を支給してくれない。くらしてゆけないぐらいの低賃金も本当につらい」といった悲痛な声が寄せられた。

報告した日図協理事の高橋恵美子さんは、「若くてやる気のある人が、働き続けられる仕事になっていない。学校図書館の司書は誰でもできる仕事だと思われがち。学校内でも理解が得られない」と問題を指摘した。

●「働く人だけでなく、その地域の住民にもしわよせ」

また、集会では当事者も自身の苦しい状況をうったえた。公共図書館で20年近く、1年契約の待遇で働いてきたという氷河期世代の女性は、最近、雇い止めにあったという。

「雇い止めの告知は突然です。私の告知は1か月前でした。年度末に告知されても、多くの図書館では募集が終わっています。このような状態で年収150万円以下の労働者に勤務評価を求めるのは、パワーハラスメントと言われても仕方ないのではないでしょうか」

「なぜ今働いている人を大事にして待遇を改善せず、雇い止めにしてサービスのレベルを下げてしまうのか。理解に苦しみます。そのしわ寄せは働いている人だけでなく、その地域の住民に及んでいます」

●待遇改善求めるアピールを採択

集会の最後には「公共図書館・学校図書館に働く非正規雇用職員の待遇改善を求めるアピール」が採択された。アピールでは、書店が減少している中、本と出会え、確実な情報にアクセスできる図書館の役割はますます重要になるとした。

一方で、職員の7割以上が非正規雇用であり、「有期雇用への不安、独立して生計を立てることのできない低賃金、正規雇用職員と大きな格差がある諸手当・休暇・昇給制度等の多くの問題」を抱えており、「やりがい搾取」と指摘している。

その上で、集会を開催した団体や識者は次のように決意を表明した。

「図書館で働く職員は、本来任期の定めのない正規職員であることが望まれます。将来的に、非正規雇用職員を正規職員に置き換えていくしくみの構築をめざして、私たちは活動を続けていきます」

弁護士ドットコムニュース2024/6/7

この国はどこに向かうのか。

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