安倍晋三と子ども

子)「かんじにもじ」の言葉を5個言って

親)いいよ。牛肉、豚肉…
はい5個言ったよ

子)違うの、10個

親)じゃあ、羊肉、ワニ肉、ダチョウ肉…はい10個言ったよ

子)違うの、12個

親)じゃあ胸肉、股肉…

子)違う、15個

このゴールポストを変える感じ。

幼子と暮らすと日々対話に苦心する。
一筋縄では行かない。
子どもは、ずらしたり掬ったりはぐらかしたりの名手だ。だからこそかけがえない玉のような大人では辿り着けない表現の彼岸へと悠々と足をかける。

ある程度社会にこなれた大人ならばなんてことはないやり取りがすんなりできないことのもどかしさもあるが、(大人に余裕さえあれば)こんなに愉快な対話はない。

だがそれはあくまで可愛い我が子の話である。我が子でないにせよ子どもの言動が愛らしいのは、小さな体を精一杯使ったいじらしくもあどけない仕草に見合う言語表現だからであり、穿ってみれば適正な庇護を甘受するための生まれつき備わった生物的生存戦略なのかもしれぬ。

はて、どこかで見たやり取りだと思ったら
安倍晋三の国会答弁か。
彼の弁は良くも悪くも悪くも悪くも悪くも悪くも、子どもとのやり取りを彷彿とさせた。

質問に答えない、はぐらかす、嘘をつく。

子どもならば可愛いが、安倍晋三のような大人はまったく可愛くない。

最近、都知事選に出馬された某氏も似たようなもので、

何か言ってるようで何も言ってない。
ポジショントーク。
真面目さを薄笑いで腐す。

そこにあるのは
成り立たない対話と撹乱。

2024年の都知事選では、倫理崩壊が取り上げられていたが

何をいまさら。

そういう風潮をじっくりと醸成してきたのは、間違いなく安倍晋三、菅義偉たちの国会や記者会見などでの振る舞いである。
dialogueというブドウ果汁の糖分を、安倍晋三たち(良質の)酵母が、ゆっくりとそして確実に倫理観の崩壊というアルコールに変えてきたのではなかったか。

対話もなくなった中央政府のことを日本式民主主義と呼ぶ向きもあるが、

これは民主主義ではない。

民主主義とはdemosのcracyなのだ。おそらく語源をギリシャに持つ国の人々がピンと来る「democracy」を、

日本人は「民主の主義」ではなく
「ミンシュシュギ〜🎵」のようにただ風にそよぐ意味のない歌のように捉えて本質を見失ってはいないだろうか。

「ジンケン」も同類である。

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