まともでいる勇気

この時代、あまりにも世の中がまともでないので、自分もそれに慣れてしまわないよう、染まってしまわないよう、しっかりと自分なりの倫理観は失わず生きていきたい。

まともでないというのは例えば1940年あたりのナチスドイツを思い浮かべる。
今の日本に住む私から見れば狂気の沙汰であったと思う。
しかし私は弱い人間だから、1939年あたりのドイツにドイツ人として生きていたら、隣人のユダヤ人が電車に詰め込まれて何処かへ去っていく姿を見ても、「こういうものなのだ、なぜなら彼らはユダヤ人だから」と、その背後を慮ることなく思ってしまったかもしれないと、粗雑な空想をしていたものだ。
もしくは私が今若きイスラエルの兵士だとして罪なき子どもたちを殺めるはらからを横目に、そういうものだからと自分も心を殺して、または何も考えずに同調するかもしれないとも思う。

でも今は、グラグラ新たな価値観に晒されるたびに切るカードを誤魔化して生きていた若い頃とは違う。私はすっかり善悪の彼岸に佇む中年となった。

クラスメイト全員が誰かをいじめていても私は流されず私なりの独立した対応ができる自信はあるくらいに年は経た。

(もちろん私の思う善悪の彼岸が誤っている可能性もあるかと思うが、とりあえずその場しのぎの日和見だけは免れることは自信を持って)

まともではないことに慣れると、おそらくその後にやってくるのはファシズムでありジェノサイドであり独裁であり全体主義であり、そして人権侵害であろう。

例えば私が今「まともでない」と感じることはどんなことかと言えば

▪️政治家が

・官房機密費を選挙対策に使ったり
・政治資金をきちんと管理しなかったり
・学術会議任命しなかったり
・反社勢力と懇意だったり
・都知事の公務と選挙活動を一緒にしたり

そういう何れも条例法律憲法などに反することなのに誰も罪を問われてもいず、議員辞職もなければ何も処罰はない、それどころか政権中枢にそのまま権力を保ったまま居続ける、そんなことや、

▪️国の大臣が

・議会で質問に答えなかったり
・罪を隠したり
・自己保身のために嘘をついたり
・場面で言うことを変えたり
・特定の記者しか入れず質問も受けず事前通告ありでしか答えられない記者会見しかしなかったり
・国会で居眠りしたりゲームしたりワニの画像を見たり

そういう直接法律に抵触する訳ではないが(明確に言えば抵触する可能性はあるが立件が難しい)、社会風潮を明確に形作るという影響力半端ない行為を平気でしかも恒常的に行ったりすることや、

▪️都知事選候補者が

・女性の裸の写真やちょっと口にするにも憚られる言葉が載っていたり候補者の顔が映っていなかったりする選挙ポスターを貼ったり
・政見放送でめちゃくちゃしたり
・公開討論を逃げたり

明確に法律になっていない範囲で、バズるためだけに何をしても良いという風潮に後押しされた常軌を逸する行動に出たり

▪️メディアが

・選挙前に報道を控えたり
・記者クラブが存在したり
・時の首相と会食したり

国が違えば民主主義としては全くあり得ない事柄が日本では謎の慣例として行われていたりすること、

▪️権力者が

・国や自治体運営の博物館、美術館などのミュージアムや教育に予算を割こうとしなかったり
・明らかに「法」を犯した自民党の「裏金」国会議員を悉く「不起訴」処分にした畝本直美氏を、検察トップの「検事総長」に任命したり
・検察が再び岸田首相を初めとする42人にも及ぶ「裏金」政治家を軒並み「不起訴」にしたり
・マイナンバーカードの取得は任意だとはっきり言ったにも関わらず次第に取得せねば国民の権利を剥奪したり処罰されたりするように仕向けたり
・最早金権まみれを隠しもしないオリンピックや万博といった時代遅れの事柄を無理やり進めたり20年後には寂れること必至の綺麗ですらない箱物を建てたり
・本来は全く異なるのにオリンピックを「復興五輪」と位置付けたり
・郵政などの民営化や外資への依存を簡単に進めたり

そう言った、グランドデザイン無きまま、アカウンタビリティー無きまま大きな政策を強引に民意無視に、いや、しれっと?進めたりすること、

▪️日本中央政府が

・米軍による日本人への性加害を「日本政府が」隠蔽したり
・横田基地に直接アメリカ人が入国することを「日本政府が」黙認したり
・PFAS漏出を「日本政府が」隠したり
・カーチス・ルメイに「日本政府が」勲一等旭日大綬章を授与したり

これらのことを思えば植民地または非差別民族としての悲哀しか感じないが、日本は対米追従から脱却できるチャンスの時代があったにも関わらず、という枕詞つくのが切ないし、すると中曽根康弘の顔が浮かぶ。西欧諸国の旧植民地はそんなアドバンテージすら無かったのだからなんと惜しいチャンスを逃したのか。世界を変えられたかもしれないのに。
中曽根氏、彼1人が責任を負うわけではもちろんないが、少なくとも国葬にするかどうかの議論が為されるなんてまともではない。どちらかと言えば国賊なのに。


少し考えるだけでも「まともでない」ことがいくつも思い浮かぶ。
こんなことは瑣末な出来事だし、これ以上まだまだたくさんあったしこれからも懲りずに起こるだろうと思う。

ちなみに私の「まともでない」判断基準は
法治国家からの民主主義
そして人権と尊厳である。

日本には民主主義はかつても存在しなかったとよく口にするが、法治国家でさえなくなってきた感がある。

そんなことしたらいけないと口にする私に、私に青いとか甘いとか社会を知らないとかそんな単純じゃないとか言う人がいる。

しかし甘かろうが青かろうが、私はパレスチナで起こっていることはジェノサイドで悪だと言い続ける。

百歩譲ってパレスチナの問題はそれこそ複雑怪奇で確かに何かを断言するのに危険を伴うのは頭で理解はしているつもりだが、

上記のような日本の政治家の振る舞いは、そんな高尚なレベルの「まともでない」ではないからこれまた切ない。

この倫理の底が抜けたような
思わず道徳という言葉を改めて辞書で確かめたりしてしまうような、
右でも左でも保守でも革新でもラディカルでもない、ただの金権と自己保身とマウント合戦にしか見えない政治遊び、ジャーナリズムごっこの輩が起こす出来事には、いつでも慣れてはならないなと

何十年も考え続けている。

そしてこれからも考え続ける。

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