絵本を舐めるなと

今朝、自費出版の持ち込みがあった。
絵も可愛いしお話も寓話的で面白い本だった。

年末の書店は多忙であるため、15分と時間を決めてプレゼンしてもらったが、そのほとんどが、「どうやって本を作ったか」に費やされた。
現地の作家に連絡を取り、著作権をクリアにし、翻訳し版元に持ち込みしたが中々うまく行かず、自分で出版社を立ち上げた。
感動的なストーリーだし、行動力のない私には眩しくそして尊敬すらしている。

でも。

絵本は、どう作られたかなんてさしたる問題ではない。内容がどうか、それしかない。
変な話、テキストと絵と、素晴らしい絡み合いで醸し出す物さえ最高ならば、紙質もデザインも凝った装丁も、子どもの本には不要、とまでは言わないが、付属品であるとさえ考えている。

未就学の子どもの読書に必要なのは、怒号や爆弾の音のしない安心できる場所で、満たされたお腹と明日以降も続く幸せな日々が担保される環境、まずはそこからだと思っている。

さらに、怒声の飛ばない親、ネグレクトでない親、愛し合う親族、もちろん暴力とは無縁の暮らし、尊敬し合う夫婦…そこも大切。

素晴らしい装丁などはそれに比べればだいぶ優先順位は下がる。ましてや、「どう作ったか」という感動のストーリーは、スピンオフとしてあるべきだ。本を手に取る時に、そのストーリーは目眩しになってしまう場合もある。

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まず内容がしっかりしていないのに、装丁ばかり凝ったものは、大人の欺瞞でありそれこそ子供騙しである、

と言った方が私の気持ちに近いのだろうか。

ということで、内容について。

まず初めに、うさぎは小さな女の子でぞうが男という設定が目に飛び込んできた。

ブルータス、お前もか
みたいな気分になる私。

どうしてこういう設定にしたのか、原書がそうだったのかと問えば

「いや、なんとなくのイメージで…」

そこには、唸るほどの理由はないとのこと。

小さな動物は女の子、大きいのは男という謎のバイアスが許されるのは、イソップ先生だけである。

そんな些細なことで目くじらたてなさんな、という向きには、声を大にして言いたい。

意外と、影響はありますよと。

環境保護の話になれば、ウサギを殺すと悪人、キツネを殺せば英雄みたいな、訳の分からない線引きで、世論が形成されて行くのは、正直、物語の影響が皆無とは言い切れないのではないかと思っている。人間が勝手に、この動物は殺して良し、この動物はダメ、みたいな線引きを見る度に、鯨とか犬もそうだが、本当に、何様かと思う。もっとさらに言えば、「自然保護」だなんて、烏滸がまし過ぎる考えにも行き着く。これも人間が我がの力を自己過信しすぎた影響で、そこに擬人化した物語が多少関わっていないとは言えない。

何度も繰り返すが、うさぎやねずみにも、もちろんライオンやゾウにも雌雄あるのはみんな分かってるはずなのに、擬人化にそんな「かけなくてよい」バイアスをかけないでほしい。お話の中でその設定が有効である場合にだけ、にしてほしい。

また、重ねてがっかりするのは、奥付けに入った国連のSDGsのロゴ。
ニューヨークの国連本部の担当窓口に依頼したらしい。私にはそんな行動力はないから、本当に憧れる。
しかし、「うさぎが女の子」だなんて簡単に言う常識に凝り固まった人が考えるユニバーサルとはなんだ?この日本で人権意識が根付かない理由に、このアンコンシャスバイアスが一定程度寄与していることは、頭を過ったのだろうか。そしてSDGsの目標の多くは、人権が絡む。日本が一番不得手なところの一つだ。
そして国連が長い間存在感を失っていることについて、また、現在どのような状況なのかについては、ノーマーク。そしてこのSDGsというものの有形無実さを理解した上で、なお、このロゴを使いたいならまだ良いが。

まぁ、そこは今に始まったことじゃない。
とにかく、迸る情熱は十分、伝わる。
でも、それならなおのこと、そんな簡単な気持ちで、「なんとなく」絵本を作ってほしくなかった。そんな素晴らしい行動力で、なぜ、肝心の絵本の内容の精査にそれを活かさなかったのか。

一重に、子どもの本を、軽く考えているからだろうと思う。

子どもの本が簡単に作れるという思い込みは、相当に根深い。

ある意味、簡単なのだろう。「戦争と平和」を書くのは、骨の折れる作業だというのは、その文字数を思うだけでも胃液が上がる。
作業量を考えれば、確かにそうだ。

でも、私は思う。
子どもの本は、残念ながら今のところ、大の大人が書くことがほとんどで、大人は子どもの気持ちなんて分からない。分からないターゲットに向けて書くことほど、難解なことはないと思っている。難解であってもいつかは問いの答えの見出せる数学と、永遠にパラドックスから抜け出せない禅問答と、(前者が大人向けの本だが)、私には後者の方が、遥かに難しいと思っている。

どちらが優れているかということではない。私ほど、作家を尊敬している人間はいないと思っている。

内容というより、
大人の本は、誤解を恐れずに言えばある意味、「適当」に作っても良い。なぜなら、読み手の大人は個人個人で判断し、嫌なものなら遠ざけることも可能だからだ。

でも、子ども向けの本を適当に作ることは、断固反対。読み手の子どもの能力が劣っている訳ではない。しかし判断力は知性と経験から下されるとして、圧倒的に経験不足であるのは致し方ない。
だから、稚拙な子どもの本が巷に溢れることは、危険だなと思う。
子どもに対して誠実であることは、上から目線で教え諭すことではなく、同じ目線で描く必要がある。子どもの心になれるのはごく一部の天才だけであるから、我々凡人は、せめて、内容の如何問わず、腹の底から湧き上がるような思いと、のたうち回るほどの思考を重ねた末に描く、くらいはしようではないか。それくらいしか、できないのだから。

子どものための本を簡単に作って良いのは、ごく一部の天才のみである。そして我々のほとんどは残念ながら天才ではない。

どんな絵本でも、推敲に推敲を重ねた末に生まれたものには敬意を表する。そのあとは、正直言って、好き嫌い、思想の問題であるとさえ、思う。
因みに、今の絵本業界の批評と言えば、好き嫌いの範囲でのみ、為されているように感じるのは、穿ち過ぎだろうか。

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「ただ、なんとなく…」

絵本を作ってほしくない

絵本を舐めるな

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