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『展開』を読む

作者と作中主体が別物というのは重々承知していて、それでも作中主体はそのまま豊冨さんだと信じたい歌集だった。彼女の大切な思い出や感情が優しく、短歌の形を借りて保存されている。「俺が俳句にできなくて諦めていたことは短歌だったらできたかもしれない」と少し悔やむほど。
「かわいい」「嘘」という言葉がたくさん使われていて、もしかしたら彼女のいるコミュニティには「かわいい」と「嘘」がたくさんある場所もあるのかもしれない。『展開』の表紙は少しくすんだピンク色をしていて、リボンのついたステッキのような鍵のようなものが描かれている。
すごく「かわいい」表紙だ。

あの人のこと好きとか嫌いとか聞いてこないおしゃべりポップコーンマシン
初めて読んだとき稲妻に打たれたような衝撃があった。俳句だと極力情報を入れて緊張感を持たせた句が受ける傾向にあると思っている。だから、ほどよい緩さがありつつ過不足がない俳句に憧れているのだが、「それ短歌でもできたのか!」という驚き。「そりゃできるだろ」と思いつつも実際に目の当たりにすると衝撃と感動がある。
恋愛って話題の一つなんだと、恥ずかしながらこの年になって気づいた。話題の一つであると同時に疲れるものでもある。「おしゃべり」だけど疲れさせない「ポップコーンマシン」。羽休めの時間をくれるのが人ではなく機械という皮肉。

帰省したことを誰にも言わないで食べにいく青色のかき氷
故郷にいて一人という気楽さを味わえる幸福。「誰にも言わない」少しの罪悪感のがより一層「帰省」を楽しいものにしてくれる。

夢で見た知らない人に恋できるくらい暇している夏休み
私にもその経験があるような、ないような。どんな人だったか思い出せないが恋をしたという感覚だけがある。不思議な目覚め。そんな「夢」を見られるし、それを覚えていられる「夏休み」。

幻覚で見られたものが詩になって刷られるまでの遠い年月
精神状態によっては物事を正確に捉えられなくなる。「これを歌にしたい!」というものでさえ、超広義の「幻覚」だろう。〈古池や蛙飛びこむ水の音〉も嘱目ではなく創作だったはずだ。
そのときの感動や「幻覚」は「詩」になって保存される。何かしらの表現にしなければ新鮮さが劣化していくが「詩」の書き方や出来次第でも劣化が起きる。「刷られるまでの遠い年月」に耐えることはできるだろうか。解凍されたそのときも同じように感動できるだろうか。

ばらばらの高校で迎えた卒業、ばらばらの門限で遊んだ
散文と韻文の境界にあるような。内容を保持した最短の表現が〈ばらばらの高校、門限〉だとして、例えば〈ばらばらの高校で迎えた卒業、ばらばらの門限で遊んだあたしたちの聖典〉など、どこまで書くかという止め時でさえ危うさがある。一応、三十一文字というのが一つの限界として設定されているものの、五七五七七のリズムから解き放たれていてその限界に従順である理由は。読者である自分にもその問いを突きつけられているようだ。

まっさらでまっしろでまっすぐでまっとうな彼氏が選んだあたし
『ねこくるよ vol.1』で初めて出会って『展開』の中でも一番好きな歌。
友達に彼氏ができたと聞くとすごく嬉しくなる。友達である以上、恋人としてその人を大切にすることはできなくて、だから「俺にはできない方法でその人を大切にしてくれる人ができたんだ」とすごく嬉しくなる。逆に失恋の話を聞くとすごく悲しくなる。
作者と作中主体が違うことはままあるし、韻のレベルのことを考えるとお題やテーマを設定して作ったと言われた方が納得できるが俺が受け取ったものがすべてだ。「まっさらで」「まっしろで」「まっすぐで」「まっとうな」「彼氏」に「選」ばれたのだ豊冨さんは。無限に幸せになってくれ。
「まっさら」なのはこれまでに彼女がいなかったのかな、「まっしろ」ってことは色白なのかな、「まっすぐ」で「まっとう」だからこれまで彼女いなかったんかな、などと「彼氏」のことが色々想像できる。技巧と内容が高い水準で両立している。

そういえば『展開』の中で「あたし」「わたし」「私」と表記揺れ(?)がある。章の中では統一されているから、一人でいるときの自分、他人といるときの自分、みたいな使い分けかもしれない。少し悲しくもあり、寂しくもある。

床置きのゴミ袋が傾いてきてこっち見る見る 見ないでほしい
私は「投げ入れやすくなったな、ラッキー」くらいにしか思わないが「見られている」という感覚の人がいたとは。「見る見る」は動詞でもあり副詞でもある、というのは許される誤読だろう。
この歌が載っている章のタイトルが「見ないで」だった。自分の二面性、他人の二面性、自分のずぼらなところなどが歌にされており、そういった意味での「見ないで」もあるだろう。14ある章のうち、1つを除いてすべて作品からタイトルが採られている。その言葉が各章に収められた作品に通底している構成で、ファイリングの能力が高い。『展開』は歌集であると同時に自己紹介であるとも。

飽きてきてちょっと忘れるひるがえる思い出すからだが動き出す
この歌も『ねこくるよ vol.1』に収められていた。そのときは猫の動きを書いたものだと思っていたが、『展開』の中にあると豊冨瑞歩の動きに見えてくる。流れや文脈を断ち切って読むことの難しさよ。

それはそう 生活が見えない人を好きになっても無駄なんだけど
真理。「無駄なんだけど」がすべてを語っている。やはり恋は理性でやるものではない。

明らかに厚さの違う赤本を隣り合わせで解いていた場所
こういうとき友達との違いをまざまざと見させられる。違っていても友達なのだが。
自分が厚い側だったら友達の赤本は気にしないか下に見るか、逆に薄い側だったら少しいたたまれない感じであったり劣等感であったりがあるだろう。相手を下に見ていたらこうは書かない。薄い側の解釈が私にとっては自然で、劣等感はなく、あったとしてもそれも思い出として愛しているのが感じられる。

〈あの人のこと好きとか嫌いとか聞いてこないおしゃべりポップコーンマシン〉の評で「俳句だと極力情報を入れて緊張感を持たせた句が受ける傾向にあると思っている」と書いたがその理由が分かった気がする。それ以外のことはだいたい短歌でやれてしまうからだ(その短歌にも限界はあるだろうが)。適材適所というか、それを知っていくらか気が楽になった。改めて短歌の蓄積、可能性、巨大さを思う。
本当に作者=作中主体で、彼女の生活の代謝として短歌が生まれてくるのなら、幸せな短歌が多く生まれてくるのを祈るばかりだ。

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