見出し画像

過酷の満州引き揚げ体験

東松島市小松・三浦さん 紙芝居で伝承「平和感じて」

 戦後79年目の夏を迎えた。戦火の恐怖や悲しみを知る人たちは減り、実体験の語り部も少なくなる。平和の祭典であるオリンピックの裏で軍事侵攻や紛争が続き、平和とはほど遠い状況が続く。「戦争とは何か」「平和とは何か」。日本もやがて実体験者不在の時代が差し迫る。貴重な記憶を「語り継ぐ」ことは今しかできない。(5回続き)

紙芝居で当時の体験や平和への願いを発信

 東松島市小松在住で満州引揚経験を紙芝居で伝える三浦亨子さん(86)。昭和13年に桃生郡矢本町立沼に生まれ、まもなく満州国で最も人口の多かった奉天で生活していた。

 当時の満州国は日本人にとって憧れの地。「仕事が豊富で高給な上、海外生活という響きも相まって移住者も多かった」と話す。三浦さんの自宅も当時としては珍しいコンクリート造2階建て。両親と兄妹計6人でにぎやかに暮らしていた。

 7歳となった夏のある日、母親がラジオの前で泣いていた。聞こえてきたのは「しのびがたきをしのび…」との言葉。子どもながらに日本が戦争で負けたのだとわかった。昭和天皇が第2次世界大戦での日本降伏を伝えた玉音放送だった。これを機に生活は一変。日本に撤退することになり準備に追われた。同時に八路軍が日本人の家を襲い、女性を連れて行ってしまうとの噂も流れていた。

 「母は連れて行かれぬよう頭を丸め、顔に真っ黒な墨を塗り、男に見えるよう変装してトイレに、私たちは2階に隠れていた」と三浦さん。実際に八路軍が家に押し入り、家具家電などを持ち出したが、幸い家族離れ離れだけは回避できた。

 八路軍が去った隙に日本へ出発。小学校に通うため準備していた文房具などは捨て、ランドセル(麻袋)には、非常食の砂糖を流し込んだ。「小学校に通うことを何よりも楽しみにしていた。学用品を捨てた悲しさは忘れない」と振り返る。

 母親は逃げる途中に家族が離散せぬよう全員を帯で結んでくれた。避難は木材や家畜を運ぶための汽車が中心で、トイレなどもないため、道端で拾っておいた空き缶で用を足した。線路が途切れた場所からは徒歩。野宿もしたが、病に倒れず、食糧難にも耐えながら、長崎へ向かう引き揚げ船のある港にたどり着いた。

満州引揚当時の三浦さん一家(前列右が亨子さん)

 船内ではマラリア予防のために白い粉を体にまく「DDT」など現在の検疫があり、合格した人から小舟で佐世保浦賀港に上陸することができた。三浦さん一家は長崎の南風崎駅から陸前赤井駅まで汽車で移動。父の実家のある上納(大曲地区)に着いた。

 一方、満州では終戦を告げるラジオ放送を聞くことができなかった人たちがその後の戦いで命を落とす、あるいはシベリアに連れていかれた。

 三浦さんは保育士として活躍し、現在は「あんもちとチョコレート」と題した紙芝居で当時の体験を伝承する活動を行い、冊子も市内の教育施設に寄贈している。紙芝居を通じて聴衆からは「親戚も引揚者で」と声を掛けられることも多く、身近にも引揚者がいることに気付かされた。

 「戦争では若者が召集令状で戦地に行かなければならなかった。令和の現代も他国間で戦争し、無関係な命が失われている。自分にできることは当時の体験を伝えることだと思うので、今後も続けていき、平和の大切さを感じてもらえたら」と話していた。
【横井康彦】

最後まで記事をお読みいただき、ありがとうございました。皆様から頂くサポートは、さらなる有益なコンテンツの作成に役立たせていきます。引き続き、石巻日日新聞社のコンテンツをお楽しみください。