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「今の石巻の姿伝えたい」 椋木りあんさん

震災報道に違和感覚え

 上智大学2年生の椋木りあんさん=東京都豊島区=は、発災当時小学1年生だった。母方のそう祖父母や親戚が石巻市相野谷に住んでおり、現在に至るまで何度も石巻に足を運んできた。椋木さんは現在、大学でドキュメンタリー制作などを通してメディアを学んでいる。東日本大震災への思いが学びの動機付けになっており「卒業後は、石巻の現在を伝える報道に携わりたい」と夢を抱く。

震災の年に笑顔をモチーフに描いた絵の説明文

 発災時は、都内の自宅でおやつを食べていた。強い揺れが発生すると母親から「机の下にもぐっていて」と声を掛けられ、机の下で体を丸めて揺れが収まるのを待った。

 震源地が三陸沖であることに加え、津波の被害が出ていることが分かった。「母が不安そうにテレビを見ていたことだけはよく覚えている」と当時を振り返る。

 続く余震や、東京電力福島第一原子力発電所の事故の影響を懸念した母親の判断で、仕事のある父親を残し、姉と3人でしばらく沖縄県で過ごしたという。

 発災後に初めて石巻を訪れたのは5月上旬のこと。がれきに埋もれた街を見て、ここで生活していた人の暮らしが一瞬で奪われたことを想像した。相野谷のそう祖父母宅まで津波は到達しなかったが、親戚の中には津波の威力で車のバンパーを持っていかれた人もおり、震災に対して漠然とした恐怖を覚えた。

大学でドキュメンタリー制作を学ぶ椋木さん

 それからは「おこづかいを全額被災地支援の募金に充てたり、子どもながらにどうしたら力になれるかを考えて行動していた」と話す。石巻には2年に1回ほど足を運んだ。復旧復興が進んで整備されていく街の様子を見て「(街が)すごいきれいになったね」と言うと、そう祖母は「あんまり見たくはないんだけど」と、震災前とは違う街の状況に戸惑う様子だった。

 「時間の経過とともに、同級生との間にある震災への意識のずれを感じるようになった」と椋木さん。発災当時が幼かったこともあり「もうすぐ3月11日だね」と言っても、ピンと来ない人もいる。

 こうした事実に触発され、高校の卒業時は震災に関する地方の報道と全国の報道の比較研究を行った。それを通して中央のマスメディアは3月11日が近付くと一斉に報道する一方、被災地のローカルメディアは、時期に関わらず震災について報道していることが分かった。

震災当時の絵

 この研究を機に進路を定め、メディアについて専門的、実践的に学べる上智大学文学部新聞学科に進学。ドキュメンタリーを作るゼミナールに在籍しており、昨年11月下旬ごろには、石巻日日新聞社に滞在し、石巻をモチーフにした作品を初めて制作した。

 椋木さんは「石巻にとっての震災は、日常と隣り合わせの出来事であることを知った。いつまでも『被災地』のレッテルに閉じ込めるのではなく、ここで生活する方々と対話し、日常に焦点を当てた作品を作れるようになりたい。今の石巻の姿を伝えられるようになれたら」と語っていた。【泉野帆薫】

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