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石巻日日新聞

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石巻市・東松島市・女川町の話題を掲載している夕刊紙「石巻日日新聞」のnote版マガジンです。とっておきの地域情報と過去記事などのアーカイブ。無料と有料記事があります。ぜひぜひフォ… もっと読む
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#東日本大震災

絵本の中で生きる命

行員の息子亡くした夫婦「ふしぎな光のしずく」出版  東日本大震災の津波で、七十七銀行女川支店に勤めていた長男健太さん(当時25)を亡くした田村孝行さん(63)、弘美さん(61)夫妻が息子の生きた証を残そうと、「ふしぎな光のしずく~けんたとの約束~」と題した絵本を自費出版した。健太さんの半生や津波の恐ろしさ、夫妻のこれまでの活動が盛り込まれた内容。夫妻は「次代を担う子どもたちに震災の出来事と教訓を伝えることが大事。命を守る大切さを考えてほしい」と望んだ。  発災当時、女川町

「今の石巻の姿伝えたい」 椋木りあんさん

震災報道に違和感覚え  上智大学2年生の椋木りあんさん=東京都豊島区=は、発災当時小学1年生だった。母方のそう祖父母や親戚が石巻市相野谷に住んでおり、現在に至るまで何度も石巻に足を運んできた。椋木さんは現在、大学でドキュメンタリー制作などを通してメディアを学んでいる。東日本大震災への思いが学びの動機付けになっており「卒業後は、石巻の現在を伝える報道に携わりたい」と夢を抱く。  発災時は、都内の自宅でおやつを食べていた。強い揺れが発生すると母親から「机の下にもぐっていて」と

「守るべきはまず自分の命」 小海途玖実さん

津波で親友2人が犠牲  女川中学校の音楽教師、小海途玖実さんは女川町出身。発災当時は浦宿浜にあった女川第一小学校(現在は閉校)の5年生だった。家族は無事だったが、同級生2人を津波で亡くした。「教え子たちにつらい思いはさせたくない」。震災を知らない世代に出来事を伝え、命の尊さを訴える。  13年前、図書委員会活動で友人と図書室にいた時、激しい揺れに襲われた。本棚が次々と倒れ、教員がすぐ校庭に避難するよう児童に指示した。「恐怖に手が震え、なかなか外靴が履けなかったことを覚えて

「獣道含め有事の道を念頭に」 木島新一さん

チリ津波の経験生かす  東松島市宮戸の木島新一さんは、海抜12㍍の高台にある自宅で東日本大震災を経験した。平時から木島さんの家は有事に避難場所とすることを地域内で決めており、津波の襲来を予見した木島さんは、より高台に避難できるよう草刈り機を持って裏山へ。雑木を除去して簡易的な避難路を確保した。  「これまで一番印象に残っていたのは、小学校4年の時に経験したチリ津波。朝食を食べている時に『ゴォーバリバリ』と堤防を越えて押し寄せる音が聞こえた。裏山に避難し、何度も押し寄せる津

東日本大震災から13年 名を取り戻し帰るべきところへ

身元不明の遺骨27柱  2万2千人を超す犠牲者を出した東日本大震災から11日で丸13年となった。描いたまちの将来像は復興という形で具現化され、にぎわいも戻った。あの日を物語る場所は少なくなったが、失われた命の重さは年月を重ねても変わることはない。  暮らしと営みが一瞬で奪われ、大切な人を失った。生きたくても生きられなかった無念の命があった。「どうしていますか」と心で問う。在りし日の面影を浮かべ、深く祈る。今を生きる私たちだからこそ、できることはある。  石巻市南境の第二

「息子がつないだ命のバトン」 田村孝行さん

企業防災のあり方訴え  大崎市に住む田村孝行さんは、東日本大震災の津波で、七十七銀行女川支店の行員だった長男の健太さん(当時25)を亡くした。健太さんは上司の指示で同僚らと高さ約10㍍の支店屋上にとどまり、犠牲になった。「高台に逃げていれば助かった。こんな悲劇は二度と繰り返されてはならない。全ての企業に、今一度、命を最優先にした防災を深く考えてほしい」。穏やかな口調ながら、どこか感情を押し殺したような険しい表情で語った。  箱型2階建ての女川支店は観光、物産施設だったマリ

「被災体験も前向きに」 西村尚さん

震災テーマの劇で主演  石巻市出身の俳優で関東を中心に活動する西村尚さん=東京都=。震災時は青葉中学校2年生で津波にのまれながらも何とか生還した。仮設住宅で暮らす中、復興支援で訪れた演劇の世界に興味を持ち、高校卒業後に上京し、俳優として経験を重ねてきた。  西村さんは、9―10日に石巻市立町のライブハウス「石巻ブルーレジスタンス」で公演を行う。同じく同市出身の秋月昌広さん(48)=埼玉県=が主宰する劇団で、震災をテーマにした作品の主演を務める。「主役になったことで今まで自

「楽観的考えがあだに」 大竹伊平さん

屋上避難とっさの判断  東日本大震災の発災時、石巻市南浜町三丁目でクリーニング店を営んでいた大竹伊平さん(65)。店舗が津波に襲われ、屋上に避難したことで一命を取り留めた。「偶然助かっただけ。津波が来るとは思っておらず、楽観的に考えていたのがあだになった」と話す。  震災後は避難所から仮設住宅、復興住宅へと住まいを移し、現在も地元でクリーニングの営業をしながら生活している。「津波は甘く考えてはいけない。教訓が胸に刻まれている」と災害への備えを痛感している。  大竹さんは

今、できることは何 特別展「ときのながれ」

震災遺構門脇小学校 教員の机の引き出し初展示  東日本大震災から13年の今月、石巻市の震災遺構門脇小学校は「ときのながれ2024」と題した特別展を開いている。特別教室1階企画展示室を会場に、被災本校舎の解体部分にあった教員の机の引き出しを初展示。明治から平成にかけた旧北上川河口周辺の変遷、能登半島地震被災地の写真を並べ、見る人に次の災害に備えて「自分にできること」を投げ掛けている。  展示は3部構成で、最初の「なつかしい石巻」は、郷土資料や写真をデジタル保存している特定非

「後世に伝えるのは責務」 片岡健治さん

有事も平時の生活考え  東松島市小野の新道町内会自治会長の片岡健治さん(76)は、牛網地区にあるガソリンスタンドで給油補助のアルバイト中に東日本大震災に遭遇した。「経験のない揺れ。渦巻く黒い波。被災後の避難所運営でとにかく必死に日々を生きた」と振り返る。  自宅を確認したが大きな被害はなく、再びスタンドに戻った片岡さん。「津波がくる」との情報を受け、スタッフ3人と保守点検用のハシゴでスタンドの屋根に急いで登った。航空自衛隊松島基地の滑走路から真っ黒い波が猛スピードで迫り、

「最悪想定し、最善の行動を」 須藤扶美子さん

石巻帰省中に津波遭遇  仙台市在住の須藤扶美子さん(61)は、海から700㍍ほどの石巻市緑町の実家で津波に遭遇し、流されるかもしれない家の2階で一晩をやり過ごした。生かされた者の使命として、教訓を伝える活動をしている。  須藤さんは震災当日、休みで帰省。運転免許はなく、仙石線で仙台に戻るため、午後2時40分ごろに石巻駅に到着した。発車待ちの車内の座席に座ってすぐに大きな揺れ。停電で電車は動かず、携帯電話も通じなくなった。津波は頭になく、実家にいれば夫が迎えに来ると考え、と

盆の夜に紙灯籠ともす 大川小 おかえりプロジェクト 

 追悼と交流で地域住民が集う「第2回おかえりプロジェクト」が13日、震災遺構の大川小学校=石巻市釜谷=で開かれた。中庭に震災当時の在校児童数と同じ108個の紙灯籠を並べたほか、校庭や昇降口などに計360個をともし、震災で犠牲になった人たちに静かな祈りをささげた。 卒業生らが犠牲者追悼 大川小学校の卒業生を中心に作る「Team大川未来を拓くネットワーク」(只野哲也代表)が主催。震災の支援活動などで、全国各地と交流したことが縁となり、同ネットワークが昨年初めて開いた。  今年

当たり前の幸せ感じて はなちゃんのランドセル 大川小から門脇に出張展示

 東日本大震災から12年4カ月となった11日、石巻市の大川小学校を襲った津波で行方不明となった〝はなちゃん〟のランドセルの展示が、民間の伝承交流施設「MEET門脇」=石巻市門脇町=で始まった。震災遺構大川小敷地内の大川震災伝承館に展示されていたもので、「多くの人に見てもらいたい」と家族が出張展示を希望した。  展示されたのは震災当時4年生だった鈴木巴那さんの赤いランドセル。中に入っていたノートや教科書、図書室で借りた本もそのまま展示している。  6年生だった兄の堅登さんは

震災伝承と心の復興へ 100通りのありがとう 初の石巻公演

市民ミュージカル千秋楽  東日本大震災のあった石巻地方の住民ら約100人による「心の復興13回忌ミュージカル100通りのありがとう」の石巻公演が24、25日、石巻市のビッグバンで行われた。未就学児から80代までの出演者が歌と踊りを交え、12年前の教訓や伝えきれていない支援への感謝を発信。涙あり、笑いありの舞台は、犠牲になった人を忘れず前を向いて生きていく決意に満ち、震災を知る地元の観客の共感を呼んだ。【熊谷利勝】  3月の東松島市に続く公演で、公開されたゲネプロ(最終通し