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「獣道含め有事の道を念頭に」 木島新一さん

チリ津波の経験生かす

 東松島市宮戸の木島新一さんは、海抜12㍍の高台にある自宅で東日本大震災を経験した。平時から木島さんの家は有事に避難場所とすることを地域内で決めており、津波の襲来を予見した木島さんは、より高台に避難できるよう草刈り機を持って裏山へ。雑木を除去して簡易的な避難路を確保した。

 「これまで一番印象に残っていたのは、小学校4年の時に経験したチリ津波。朝食を食べている時に『ゴォーバリバリ』と堤防を越えて押し寄せる音が聞こえた。裏山に避難し、何度も押し寄せる津波を見た」と木島さん。13年前も大きな地震を受け、すぐに津波がくると判断した。

幼少期の経験が生きたと語る木島さん

 「海抜18㍍ほどの裏山は子どもの頃に秘密基地などで遊んだ経験がある。道はあったが、少しでも通りやすくしなければと真っ先に刈り払いが頭に浮かんだ」

 作業中、背後からチリ津波同様に津波が押し寄せる音が聞こえていたが、津波自体は見なかった。ブルーシートを屋根にした一時避難場所を設営。妻の澄子さん(74)も避難者対応などにあたりながら裏山に逃げた。

 同じころ、自宅の近くで海抜5㍍ほどに位置する企業の駐車場では、家財などを積んで待機する車が複数あった。そこに巨大津波が襲い掛かり、津波にいち早く気付いた人は辛うじて高台に逃げられたが、犠牲者も出た。ずぶ濡れで逃げてきた人の「地獄だった」という言葉が印象的だったという。

 その後、避難者とともに一時避難場所にいたが、寒さも厳しく乳児を抱えた人も。「このままでは死んでしまう」と、高齢者と子どもだけでもと自宅へ。扉などが地震で壊れ、吹き抜け状態だったが、風をしのげた中間(なかま)で10人ほどが肩を寄せ合い、暖をとった。

 木島さんは「深夜まで繰り返す大きな揺れに、その都度自宅から裏山への避難を繰り返した。津波も繰り返し迫っており、毛布を羽織って玄関で寝ずの番をした」と振り返る。

妻の澄子さんと13年前を振り返った

 流れ着いた自販機から飲料水を確保するなどしながら生活し、発災3日後に、宮戸の消防団によって船で救助された。宮戸小学校(現在は閉校)で避難所生活し、その後は塩釜市のアパートをみなし仮設へ。住宅再建先を考える中、古里への思いを捨てきれず、被災家屋を修繕し、今も2人で住む。

 改めて感じるのは避難する道の大切さ。舗装された幅員の広い道路だけでなく、浜から山へ、平地から高台へと向かえる遊歩道や獣道も含む。「宮戸は遊歩道が複数あり、それを住民が把握していたのですぐ高台避難ができた。昔から知っているというのが大事で、その道を維持することが大切」と語る。

 震災後、宮戸地区は住民が大幅に減り、住民だけでは草刈りなどの管理が難しくなっている。「津波避難タワーも大事だが、金をかけずに確保できる避難路もある。身近にできる防災は何か。それを振り返る日が3月11日だ」と話していた。
【横井康彦】

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