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江戸時代の士農工商は身分制度ではない! 役人が極端に少ない世界!江戸の税率は低かった! 幕府の政策編後半 賢者は歴史に学ぶシリーズ⑧

前回は、江戸の政策で誤解されがちな
①鎖国
②大奥
③参勤交代
を説明しました。
まだ読んでいない方はこちらから。

今回は幕府の政策編後半です。
④士農工商
⑤役人
⑥年貢 
⑦生類憐みの令1687年
⑧天保改革1841年について
順に説明したいと思います。

ちなみに徳川家康はどうして江戸を
首都にしたのかですが、
当時は政治の中心はほとんどが京都
もしくはその近辺でした。
しかし、ナーガ系の波動が強い土地でした。
ナーガ系の考え方は
「庶民は所有物」
「権力者が一番偉い」
「庶民は黙って従え」的な考え方です。
家康はそれを嫌い、関東の地で 
新しい国づくりを進めたかったそうです。
関東は、関東平野が広がる
気の流れのよい土地で
気が滞ることなく、気が循環しています。 
その場所にこの国の中心をもって来たのです。

話を戻して④士農工商の解説です。
④士農工商
士農工商はどんなイメージがありますか?
身分制度やカースト制度の1つ
武士>農民>職人>商人の順で偉い。
そのため、その身分の低さに不満を持った
商人が明治維新の改革に参加したなど。
これ全部うそです。
書き替えられた歴史の1つです。
明治維新は商人も中心になったのは事実ですが
理由はもっと別のところにあります。
あとで解説しますね。
では、この士農工商の制度は一体何なのか!?
これは、人を差別するものではなく
「職業的な役割を幕府側がしっかりと表した」
それだけのものです。


→常に自分を律し武芸に励み
何かが起きたときには庶民を守る役割。
武士道を貫き精神的に強くあるべき。


→生活の中で1番大切な食料を生産するという
国の礎になる大切な役割。


→生活に必要なものを作る職人は 
人々の暮らしになくてはならない役割。


→農民が作った食料、職人が作った生活用品を 
流通させるのが役割。

それぞれに大切な役割を持っていて
誇りを持って従事しなさいという
幕府側の気持ちを伝えたものです。
法律というより「こうあるべき」という
指針に近い形ですね。
実際は希望すれば、どんな職業にも
就けました。農民の子は農民ではなく
農民の子が武士になることも可能でした。
しかし、大名クラスの武士となると
なかなか難しかったのですが
普通の武士にはなれたそうです。
士農工商も
江戸時代はひどい時代と印象づけて
「明治維新バンザイ」にするために
身分制度と言われてしまいました。
学校で習った江戸時代の歴史は
こんなのばっかりです。
「勝者によって歴史はつくられる」ですね。

⑤役人
江戸時代は、封建制度であらゆる言論を
弾圧して、政治犯を容赦なく処刑。
全国民を奴隷化することで延命を計り
長く続いた。
こんなイメージが江戸時代にある人も
いるのではないかと思います。
これが全く違うという2つの根拠があります。

1つは弾圧や強制により政権を260年もの
長い期間にわたって維持することができない
という歴史的事実からです。
例えばソ連
歴史上珍しいほど組織的な弾圧機関を作って
徹底的に取り締まりました。
数多くの政治犯収容所を設けて
政府の方針に反対する人々を逮捕して
強制労働させましたが
最後に勝ったのは
収容所に入れられていた反体制派でした。
このソ連型社会主義体制は
何年続いたと思いますか?
72年しか続きませんでした。
ソ連は外圧や外国との戦争の結果として
解体したのではなく
内部から崩れてしまいました。
数多くの政治犯収容所を設けて
逮捕しまくったにもかかわらずです。

対する江戸時代は、革命や政権分裂などの
内部崩壊によって終わったのではありません。
外国からの侵略、外国に協力し
権力や利権だけのために
動いた人たちによって終わりました。
そして、江戸時代は、鉄道も通信もなく
どこへ行くにも徒歩しかなかった環境です。
現代人には想像できないほどの広い国であり
その国の広範囲に住んでいた約3000万人
当時としては識字率が世界一高く
世界でも指折りの大人口を
一方的な強制によって260年間も
服従させ続けることなどできないはずです。
また識字率の高さは支配する側にとって
かなりやっかいなんです。
伝言ゲームで分かるように、口頭で伝えると
途中で間違えることよくありますよね。
こちら側の意図がうまく伝わってないとか。
しかし、文字は間違うことなく
ダイレクトに伝わります。
支配者のやり口や批難を
誰かが書いて本に残したら
それは捨てられない限り
永久に誰かが見ることができます。
そして、それを拡散されたら
支配者にとって脅威ですよね。
文字は情報をたくさん得ることができて
庶民同士情報交換をスムーズに
できます。
庶民が文字を書ける、読めるというのは
支配者側にとってかなり
リスクがある状況なのです。
それにもかかわらず
江戸時代の当時世界一の識字率の高さは
江戸時代が庶民のための時代の証
ではないでしょうか。

2つ目は幕府も大名も260年間にわたって
徹底した弾圧を続けられるほど人手が
なかったという客観的な事実です。
官僚国家は明治維新以後にできたもので
今とは違って、江戸時代の日本は
全国民をがんじがらめにし続けるほど
大勢の官僚が養えなかったのです。
江戸時代は官僚国家からほど遠い存在でした。
当時の首都である江戸は18世紀中頃には
人口が55万人いましたが、その庶民を
支配する町奉行所はなんと2人。
その町奉行所の下には290人の
役人しかいませんでした。
しかも警察業務についている役人は
そのうちの24人だけで
市中をパトロールしていたお巡りさんは
さらにその半分の12人しかいませんでした。
人口55万人に対してお巡りさん少なすぎです。
江戸の警察がかなりの小規模だったことに
驚きですが、正規の徳川直参武士の警官が
いたのは日本では将軍お膝元の江戸だけ
でした。
かなりビックリな事実です。
ちなみに江戸に並ぶ大阪の役人の数は
さらに少なく、人口40万人に対して
役人は最も多い時で160人。
そして、お巡りさんはその役人のうち
たったの4人だけ。
人口40万人にお巡りさん4人は
ほとんど0といっても良いと思います。

さらにこんなエピソードもあります。
1787年5月20日の朝に騒動が起きた
天明の打ち壊しの様子ですが
「明け方まであちこちで暴動が起きて
米屋だけでなく裕福な商人まで襲われたが
町の役人は何もしない。22日の昼になって
ようやく役人が出勤して騒動が収まった。」
というエピソードがあります。
丸二日半たってからようやく出勤したのは
暴動を鎮圧する自信がなかったから。
沈静化しかけた頃を見計らって
ものものしく出勤したというのが
本当のところらしいです。
この程度の暴動を鎮めるだけの
人手がなかったということですね。
江戸や大阪の大都市でさえこんな状態なので
その他の中小都市の警察組織は
はるかに手薄だったし、農村部は
手薄どころか常設の警察組織はないのが
普通でした。どう考えても江戸時代が
全体主義的警察国家だったとは
思えないですよね。
ちなみに、一揆もありましたが
今の感覚でいうとデモみたいなもの
だそうです。
庶民が一揆をして
上のものにたてついて殺されるとか
そんなことはなく
むしろ困るのは大名や役人のほうでした。
庶民のための幕府であり
庶民のための国であり
庶民に人権があるというのが
江戸時代の共通認識でした。
なので、ある藩で一揆を起こされたのが
幕府の耳に入ったら
その藩はどんな政策をしているのかと
幕府から大目玉を食らうことに
なったからです。
だから、藩や役人のほうが
庶民の顔色をうかがって
ビクビクしていたのが事実です。

⑥年貢
年貢については
農民たちは幕府の厳しい年貢の取り立てで
いつもお腹を空かせて、餓死の恐怖に怯え
貧しい思いをしていたというイメージが
あると思います。
これも大きな誤解です。
実際は農民の税負担は低かったそうです。
まず、検地の段階でどこまで村の土地面積や
生産性を正確に把握していたかが疑問で
この段階で実際より少なめになっている場合が
多かったそうです。
さらに時代と共に農業の生産性が高くなり
商品作物の導入が進み
農民の出稼ぎ賃金収入が増えても
村高には反映されませんでした。
つまり、17世紀に検地の終わった段階の村高が
18、19世紀までほとんどそのままであり
実際の所得が増えても納税額は
変わりませんでした。もちろん例外は
ありましたが、あくまでも例外で
ほとんどはこのような感じでした。
例えばですが
信濃国更級(さらしな)郡中氷鉋(なかひがの)
村という川中島平の中心部にある村での
調査結果です。
この村の年貢率は
1628年から明治の1870年までの
最高が56%、最低が29%
そして1716年~1736以後は
定免法つまり税率が44%の定率になりました。
こういう表向きの数値だけみれば
すごい重税です。
しかし、実際は税率ではなく税額が同じままで
実際の村の所得は増えていくから
本当の年貢率ははるかに低いのが普通でした。
具体的に説明すると、この村での主要作物
(米、大麦、小麦、大豆、菜種など)の生産量を
米の生産量に評価替えした数値を
実際の年間村内生産物量とみなし
実際に納めた年貢米との割合を
実質年貢率として計算すると
20%前後になります。
しかも、村内生産物には
繭、生糸、綿、野菜などの農産物
農民の出稼ぎ賃金のような
付加価値の高い所得が入っていません。
こういう生産額まで加えた
本当の村民所得に近い数値を求めて
年貢米との比率を計算すると
農民の税負担率は44%ではなく
10%未満にすぎなかったのです。
だから、幕府が多くの役人を
雇えなかった理由もうなずけます。
多くの役人を雇えるのに
必要なお金がそこまで
なかったんですね。

ちなみに江戸時代に餓死者は
ほとんどいなかったそうです。
そういった史実が残っていたとしても
それだけ珍しいことだったということです。
例えば普段書く日記でも
「毎日ご飯食べています」とか
「毎日ネット見ています」とか
「今日も会社行きました」とか
いつも普通に過ごしている日常は
あまり書きませんよね。
その日に起こった珍しいことを
書くのではないでしょうか。
江戸時代も同じだと思います。
「昨日もご飯食べました」とか
「今日もご飯食べました」とか
そんな当たり前のことは
いちいち書かないと思います。
また、今と違って江戸時代はいたるところが
田んぼや畑でした。
海も綺麗で魚もたくさんいました。
山に行けば食べ物はどこにでもありました。
木の実や山菜、小動物もいます。
自然が豊かなら死ぬほど
飢えるのはありえません。
餓死は自然が豊かでなくなった
現代の発想です。
また、飢饉や天災が起きたときには
幕府は蓄えてある食料を
惜しみなく放出していたそうです。
餓死するほど庶民は幕府や役人から
搾取されていたという
風潮をつくりたいのがみえみえですね。
今の時代は物が豊かで溢れかえっているのに
餓死で亡くなる方もいます。
物質的に豊かになることに
社会が人々が固執しすぎた結果
心が貧しい社会になったと思います。
心の豊かさにフォーカスする時代が
いよいよきたと思います。

⑦生類憐みの令1687年
これ学校で習ったときに
徳川綱吉=変人将軍というイメージが
ありました。
犬将軍、奇人、変人、ヤバイ人。
でも、そうではなかったのです!!
徳川綱吉の名誉を回復したい!!
これをきっかけに
本当の綱吉の姿を知ってもらえたら
嬉しいです。
まず、徳川綱吉は
どういう人物だったかというと
彼は、穏やかな性格だったそうです。
まわりのにぎやかな雰囲気が苦手で
ひとりの時間を大切にしていました。
太陽や月などの天体の影響をよく知り
鳥の動き、雲の流れ、空気のにおいなどを
敏感に感じ、超感覚もありました。
平和を好む縄文の魂を持っていて
感覚派の人でした。
そして、ワンネスを知っていました。
すべては波動でできていて
みんなはつながっている。
動物も植物もみんな意識があり
人間と何も変わらない。
だから命を軽んじてはならない。
そこで、動物より人間が偉いと
考えている庶民を是正しようと思って
出した法律が生類憐みの令です。
ところが、綱吉のこの意図を
正確に理解する役人はほとんどいませんでした。
確かに「ワンネス」とか
「すべての命は等しい存在」とか
上下や優劣や競争の価値観を
植え付けられてしまった現代社会でも
この理解は難しいと思います。
そして、これは考えるものではなく
感じるものです。
江戸時代人々や文化は
縄文に近いといっても
縄文ほどではなく、超感覚を
忘れている人がほとんどでした。
役人達は表面上の言葉の意味だけをとり
「動物を殺してはいけない」とだけ
解釈された結果
人間よりも動物の命が重いと
言い出す役人まで出てきて現場は大混乱。
綱吉の思いとは真逆の政策に
なってしまいました。

また、天下の悪将軍と言われてしまった
不幸な偶然がいくつもあります。
徳川綱吉が在職していた
1680年~1709年の間
飢饉、大火、地震、噴火(富士山)、洪水など
短期間に集中して、天変地異が起こりました。
それは、地軸が傾いてしまったテラ(地球)の
磁場が変化し、テラがその磁場を
微調整する時に、気象や地球の内部に
影響が出たためです。
何年周期かで自然災害や天変地異が集中して
起こる時代があるそうです。
綱吉は異変に察知する能力のおかげで
天変地異に気付き、庶民を非難させたり
食料の備蓄をするようにと家来たちに
命令していたのですが
綱吉を変人だと思っていた家来たちは
相手にせず、行動に移さなかった
ということです。
でも、綱吉が伝えたことで
一応は警戒していたらしいです。
しかし、綱吉の言うことを
信じる家来が多ければ
災害をもっと小さくできたり
防げたりしたそうです。
自らの能力を発揮できず
家来から変人扱いされて報われない人。
それが綱吉だったんですね。

⑧天保改革1841年について
これも江戸時代の悪政の1つとされています。
改革を実行したのは徳川吉宗。
「質素倹約に務めなさい」
「派手なことは慎みなさい」
次から次へと禁令を出して
こまごましたものまで取り締まる。
実際は2年半のごく短い期間でした。
しかも、本気で取り締まりをやったのは
江戸市中だけ。
そして、厳しい取り締まりをして
江戸市民の恨みを買った役人がいたのですが
後に流罪となっています。
この政策を実行した吉宗ですが
ある思いがありました。
吉宗は徳川家康や綱吉を尊敬し
庶民的な感覚の持ち主で 
自ら質素倹約に努め
 国のことや 庶民の暮らしのことを
常に真剣に考えていました。
家康をはじめとして 
これまでの将軍たちは 
精神性を大切にしてきました。
物質的には豊かではなくても 
心が豊かであることが大切。
精神的に豊かな国を目指していたのです。
しかし、中には「金だけ、自分だけ」の
拝金主義、物質主義に染まる
庶民もいました。
それが商人です。
商人はお金を扱う仕事です。
そのため、より多くのお金を
手にしたいという商人もいました。
特に諸外国(西洋文化)と交流を
もつ機会が多かった商人たちの中で 
拝金主義、物質主義という考えが
蔓延していきました。
そのために、利益優先で
作物や物の値段を吊り上げ
ぼったくりをする商人や 
外国のきらびやかな商品を扱うことで
派手な商品を流通させ
庶民に物欲を煽る商人も現れたのです。
吉宗は 拝金主義や物質主義に
庶民の心が染まらないように 
天保改革を進めていったということです。
だから、米問屋、材木問屋などの商人や 
派手できらびやかなものに価値を
見出した人々からは
嫌われ、不評だったようです。
この拝金主義や物質主義に染まった
商人たちが自分たちの利益のために
明治維新の革命に参加しました。
詳しい話は明治維新の回で話します。

江戸時代の政策ですが
こうしてまとめてみると
学校で習った内容とはずいぶん
間違った伝わり方をしていますよね。
「明治維新バンザイ」にしたいための
支配者側の意図があることを
ご理解いただければと思います。

この江戸時代の政策を知って
私思うのですけど
今の政治って国民ありきではなく
本当に利権ありきだと思うんです。
例外の政治家もいましたが
もれなく・・・されました。
・・・はお想像にお任せします。
「政治家は国民のためを思っている」
「政治家は国民の人権を大事にしている」
こう思い込んでいると
本当の真実が見えなくて
カモにされるだけなのが今の現実です。
利権だらけの政策しかない。
国民の生活なんかこれっぽっちも
考えていないです。

まず税金取りすぎ問題
働いたら課税 →所得税
買ったら課税 →消費税
持ったら課税 →固定資産税
住んだら課税 →住民税
乗ったら課税 →自動車税・ガソリン税
入ったら課税→入湯税
起業したら課税 →法人税
死んだら課税 →相続税
あげたら課税 →贈与税

これだけ税金をとっておきながら
十分な社会保障がされるわけでもなく
どんどん減らされる年金。
どんどん上がる国民の税負担額。
やっぱりおかしいと思います。
これは少子高齢化が原因では
ありません。
だって、法人税を減税したり
海外に気前よくお金配ってますからね。
(そのしわ寄せが国民に向かう)

あと2020で話題になった
アベノマスクの件。
各家庭に2枚のマスクを配布する。
この政策、利権以外の何物でもないです。

100年後に歴史のテストで
2020年の問題が出ました。
Q2020年コ○ナが流行していたとき
国民が失業や不況に苦しんでいた。
このときに安倍元首相が
全国民に対して行った政策とは?
①から⑥の内正しいものを
2つ選びなさい。

①社会保険料の免除 ②公共料金の免除
③各家庭にマスク2枚の配布 ④消費税の撤廃 
⑤家賃負担の免除 ⑥国民1人辺りに給付金10万円  

正解は③と⑥
これをテストで正解できる人が100年後
どれだけいるのでしょうか?
世紀のひっかけ問題として
伝説に残りますね(断言)。

ちなみにマスク2枚を
各家庭に配布した
総額はなんと260億円。
マスクは8200万枚も余り
在庫の15パーセントが不良品
保管費が6億円
検品費21億円
さらに余ったマスクを
希望者に届けるための
再配送費10億円→(廃棄なら6千万円)
かかったそうで
これ全部国民の税金ですが
国民の税金をなんだと思っているのか。
完全に私物化していますよね。
「私物だと思っています(^^)/へへッ」と
この際はっきり言ってくれれば
利権だらけの本当にヤバイ政治だと
気付く人が増えていいのに!!と思います。

最後まで読んでいただき
ありがとうございました。
この宇宙に1つしかない
オリジナルでスペシャルなあなたに
このメッセージが届けられたことに
感謝を込めて。

Twitterもしています。
noteではなかなか伝えられない
情報をお伝えしているので
よかったらご覧ください。

次回は江戸時代の庶民の生活に
迫ってみたいと思います。
娯楽、結婚、食事、教育など
自由で豊かな文化がありました。
江戸時代いいなって本当に思います。
次回もお楽しみに。

参考文献

#江戸時代 #士農工商 #徳川吉宗 #年貢  
#生類憐みの令 #歴史 #徳川綱吉 #江戸  
#賢者は歴史に学ぶシリーズ



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