世界にひとりだけの座標
自分という存在は世界にひとりだけ。
よくある前向きなフレーズは、わたしに時々、とても残酷に響く。
わたしは、わたしと限りなく同じといえるひとに出会ってみたかった。
家族みんなで笑っているとき、
友達みんなでランチしているとき、
同僚みんなで作業しているとき、
わたしだけ、ひとりだけ、どこか座標がズレている。
いつも、いつも、どこかズレている。
ここに居るのに、一緒に居ない。
一緒に居るのに、ここに居ない。
自分だけが、“少し” “何か” がちがう場所と時間に生きている。
わたしは、一生ひとりで、一生迷子だ。
悲しくて悲しくて、それでもどうにもならないから、まだそこそこ若い頃に、未来永劫の孤独を覚悟した。
本当はきっと、みんなそう。
みんな少しずつズレていて、まったく同じ座標に被る人なんてどこにもいない。
でも誤差の範囲内にちゃんと、いるんだろうな。
同じと言っても差し支えないくらい近似したひとが。
少なくとも、わざわざ探す必要がないくらい、自分の座標のまわりが、ちゃんとにぎやかなんだろうな。
それが、わたしには初めから欠けていて。
ズレに過敏なせいか、そもそもわたしの座標付近が閑散としているせいか、おそらくは、たぶんその両方のせいで。
せめて、鈍感であればよかったのに。
そしたら、こんなに寂しくならないで済んだかもしれないのに。
それでも未だに、期待は捨てられないのです。
自分とおなじだれかが、この世界にいること。
座標自体は遠く離れても、自分とおなじ事象に悲しむ人が、世界のどこかに居ること。
居たからどうなると言われても、そんなことは分からない。
分からないから、出会いたい。
いつか出会えたら、
1カンデラくらい、ここから先の未来が明るく見えるのかもしれないから。
おしまい。