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触れるの感覚を澄ます

日々、料理をしてます。
仕事でもおうちでも。
ただし、料理をしている間、自分自身がどんな風に素材に触れているのか、そこに意識を向けることはほぼありませんでした。
ある夏の一日まで。

定期的にオンライン受講している料理教室で、この夏に行われた白玉を作るクラス。
今までの白玉の概念を覆されるような作り方に、びっくりしてすぐに試してみたものの…とにかくできなかったんです。
白玉って一番手軽で簡単なおやつだと侮っていました。。。
私が普段つくる白玉に比べると、先生のお手本はあまりにも柔らかい生地。
きれいに丸めることはおろか、まとめることすらできず、アメーバーみたいな失敗作が毎週冷蔵庫に溜まってく状態。
なぜ先生には出来て、私には出来ないんだろう。。。
先生の手と、私の手は何が違うんだろう???

どうしてどうしてどうして…。
考えるほどに、所作は硬くなりますますアメーバーを量産するばかり。

「触覚を研ぎ澄ますのよ!」

先生がおっしゃっていた言葉が、頭の中を駆け巡るものの、私の触覚は鈍感でちっとも白玉をとらえられない。
むむむむーと毎回凹みながらも、諦めたくない!と毎週末のように白玉をつくっていました。

そんなある日、お風呂上がりに自分の足をマッサージしながら、以前アロマの先生が口酸っぱく繰り返していた言葉を、ふと思い出したんです。

『肌に触れるときに大切なのは、皮膚と皮膚の距離に敏感であることよ』

あれ?もしかして白玉もこの感覚なんじゃない!?

皮膚感覚を通して情報をやり取りするのは、ボディータッチだけじゃない。
料理だって目の前の素材の情報を、私の皮膚感覚を通して感じることが大切なんだ!

ピン!ときたらすぐ実行。
それが画像の白玉です。
まだまだまだまだだけれど、ちゃんと丸めることが出来て白玉っぽいお姿になってる(嬉しい)。

肌が合う、肌で感じる、肌を許す。
日本の慣用句には「肌」が使われたものが多くありますが、その殆どは私と誰かの関係性だったり私となにかの関係性、それもとても重要な関係性を表すものです。
肌は自分と自分以外の世界との境界線。
だからこそ肌が捉える感覚は、時に生死に関わる情報だし(鳥肌が立つとか!?)、何より私の気分や気持ちにダイレクトに影響するものです。

私の触覚がどれだけ衰えてしまっていたのか、気づかないまま過ごしていました。
このまま気づかずに、触覚という感覚の存在すら忘れてしまっていたら…と思うと恐ろしい。
ということで、只今絶賛【触覚「再」開発中】です。
赤ちゃんの頃、小さな子供の頃は、言葉や思考よりずっとずっと皮膚感覚を敏感に生きていたのにね。
いつの間にか思考や言葉に頼りすぎて、触れる感覚をおざなりにしてしまっていました。
生きるチカラの大きな一部が欠落してしまってたんだなぁ。

小さな音に耳を澄ますように、触れるの感覚も澄ます。
私と誰かはもちろん、私と目の前の素材に対しても。
包丁が入る瞬間の感覚、食材同士を和える時の感覚、おむすびを結ぶ時の感覚。
店頭で野菜を選ぶ時も、できるだけ触れて素材の状態を感じたい。
そうやって肌が合う食材を肌で感じながら、ご飯をつくっていきたいな。

それがきっと肌に馴染む味を生み出すのでしょうね。
触覚を育てる毎日は、これからずっとずっと続きます。


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