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「給食のうずらの卵で窒息死」ー学校への「安全」と「経験」の併存を期待する私たち

2月下旬、小学1年生の男子児童が、給食のおでんに入っていたうずらの卵を喉に詰まらせて死亡するという痛ましい事故が起こった。これを受けて各地で「うずらの卵」の給食での提供を控える動きが広まっている。一方で、どの食材でも窒息は起こりうることだとか、よく噛んで食べるという食事の指導に力を入れるべきだとか、「うずらの卵」を悪者にして排除する流れに批判的な声も上がっている。

「危ないものを取り除くことで経験値を下げてしまう」という問題はジャングルジムなど遊具の撤去でも議論されてきた。この手の話題は「みんなが同等に主役の劇」とか「順位を決めないリレー」とか、「傷つけない教育」または「モンペ対応を重視した教育」への批判に論点はすり替わっていく恐ろしさがある。「教育への批判」は身近であるからこそ目をつけられやすく、「モンペ」という不確かな実体という「未熟な人間が無責任に親になること」自体、子育て経験者からの攻撃や見下しを受けやすい。そのような各々の教育論の正しさを誇示し合う吊し上げは、今回のような事故においてはノイズにしかならない。

給食は小学校1年生から6年生まで、体格も歯の生え方も違う子どもたちが、同じものを同じ時間で食べなければいけないという大前提がある。前後の時間割による忙しさ、低学年の配膳の手際の悪さもあって、ゆっくり味わう時間を確保するのは相当難しい。教員がいくら「よく噛んで」と言ったって聞いていない子どもはいるし、うずらの卵やミニトマトのような丸くてツルツルした食材は「遊び食べ」するのに絶好の食材である。頬の奥の方に入れ込んで、左右に行き来させて遊んだりする。私が見たところ低学年の子どもたちは大半空想に耽っており、「遊び食べ」からの丸呑みは珍しいことではない。

教育現場に安全の確保を絶対前提とした「経験」の丸投げは、ほとんど不可能だと周知された上で、その「経験」は保護者が子供に享受していくべきだと、そろそろ声を上げてもいいのではないかと思う。

近年保育園に子どもを預けて共働きする夫婦が増えた。保育園での痛ましい事故の報道も多々見かけるが、その延長線上に小学校以降の教育を考えない方がいい。そもそも小学校は「保育」の場ではないし「躾」を行う場でもない。しかし家庭でできないことの大部分を学校が担おうと耐え忍んでいるのが現状である。もしも「うずらの卵」を家庭で食べる機会がないのなら、あえて学校で提供する必要はないだろう。学校への「安全」と「経験」の併存が期待される社会が続いてしまうのなら、リスクある幅広い経験は切り捨てて、家庭でも手に入りやすいレベルまで落とした教育を行っていくしかないのである。もちろん、それでも100%事故は防げない。できることならば、親が一緒に「食べる」一緒に「考える」一緒に「失敗する」一緒に「やり直す」経験を、最後まで手放さないでほしいと思う。

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