【臨済禅師あるいは普化 的な】無意味化というランデブー(⋈◍>◡<◍)。✧♡

なんともありがたいことに
先日、r/shさまからお仕事依頼をいただき、
しばらく考えを巡らせておりました。

こちらの、大変示唆に富んだお話を無意味化するという、

もったいないことこの上ないようなお仕事ではありましたが、
いまの私なりの自己満足のいくアンサーを得ましたので、報告いたします。

           ※※

<この寓話の所感>

1.印象

以前私が書いたものに似ているなぁ、という印象を受けた。


2.問題意識

おそらく、このようなテーマ、(水脈的)文脈をわれわれに起こさしめている、共通認識、集合的無意識、時代的地形、風土はおおよそこれであろう。


3.結末のフラクタル的恍惚感・曼荼羅的意識

『神様は「いや、君たちは見ていない。見れば無くなってしまうから見なかった」と、こちらを振り返りそうな勢いで応えた。そしてぽつりと、「私にもまた神様がいて、その人のことをずっと想っているんだ」と、星雲の、そのまた向こうを見つめながら呟いた。』

 寓話の中のこの言葉は、下の記事における、この世の焦点、全点、無点的性質が見事に表されている。

さらに、神様でさえ、上の記事の指示す「時間(順序)と空間(規模)に囚われたシーシュポス的存在」であると、存在の次数変換を行っているのだ。

そして、寓話の最後は、少年の意識が海と空という大自然に溶け込む形で締めくくられいる。これはさながら空海や釈尊が「修行の末」(始まりにして終わり)に体感したソレに似ている。

ソレとは、私なりに書き表すならばこれらである。


4.人間性ゆえの人間的な哀愁について

これはつまり人間的な行動、すなわち、ありとあらゆる人為を考える上で避けられない、マッチポンプなむなしさ得も言われぬ「哀愁」的な様々なナニカを≪神様≫という一文字に落とし込んで表現しているといえよう。

「神様が消えた」

という漠然とした想像現象は、人々が一切の考えることをやめ、「考えるという行為」という概念そのものが消えたという意味にも解釈を施すことができよう。

すなわち、この寓話は万人が救済から救済された後の、ありがたく、それでいてどこか物悲しい世界のお話であるといえる。


5.無意味化するにあたり

 この寓話を相殺するために前提条件を崩す方法でいこうと思う。つまり、人間的なもの、すなわち人間など初めから存在しないのだと、覚らせてみよう。

したがって、今回は臨済禅師的な言語で迎えようと決めた。


参考文献を探す上で、この動画がとてもわかりやすかった。

加えて、トーリク.V チャイカさまの11月上旬あたりの記事も同様の文脈に沿っていると思われる。興味のある方はそちらもあたってみていただきたい。


※※


<本題(反立証)>

寓話『地獄に舞い降りた天使』


天使は目を疑った。

閻魔さまも、そこのすべてを司る神でさえ、自らの目を疑った。

もがき苦しむ餓鬼や、煮えたぎる釜や、剣の山さえも一瞬で浄化され、

地獄の地上の一切が、たちまちに人界のごとき温かな光を帯びたのだ。

それは天上界の極上の光明には遠く及ばない光であったが、餓えた万物のこころに火を灯すには十分な力を持っていた。


苦しみ疲れたモノはその光に肉体を分解され、それ以上苦しまなくてよくなった。

比較的楽そうに見えるモノはその光を掲げ、餓鬼を導くモノとなった。

しかし、あまりに楽そうに見えるモノの光は鬼の目には眩しく、非難の目が向けられるようになった。


餓鬼どもは、大小の光に癒され、

恒常的な耐え難い苦しみから解放され、

常に耐えられる苦しみに晒られるようになったことで、

比較することを学び、物事の変化に一喜一憂し、

他の者を一時々の様相から評価することを覚えたのだ。



天使は反省した。

・その場に遣わされてしまったこと。
・自らが超高次の神に仕えていること。
・現場の神に仕えていないこと。
・現場の神と自らがほぼ同格であること。

・救ったことで、苦しみを「教えて」しまったことを


しかし、天使は思った。

旧餓鬼たちの話す言葉、単語、概念の一つ一つが同様の形で彼らに教えられたのではないかと。


そして天使は少しだけ安堵した。

餓鬼を究極の苦しみから救ったことで「苦しみの天使」となってしまったが、その実は「救済の天使」であり、天上の名『解脱の天使』に恥じぬ行いを果たせたのだと、自らを諭し、人界さながらとなった地獄界を後にして、自らの神の元へ向かった。

その道中、他の天使たちの姿が見えなかった理由がわかり、さらに安堵した。

神の下で長くその光を浴び、よく学び、究極の光明に慣れていた目は
人間を餓鬼さながらに映し、木々を剣山の針さながらに映し、
発光の弱い天使たちを空気さながらに映していたのだと。


そして、天上界への帰還の間際に案じた。

救いきれたのか、否か。

命を果たし切れたのか、否か。

そもそも、有余涅槃しか知らぬ天使風情に可能な任務だったのか、否か。


そして、その不安は的中した。不安ゆえに的中した。

案の定、その身は天界に帰ることはできなくなっていた。


途方に暮れる中でふと、随分昔に自らの神から受けた忠告を思い出した。

「地獄では、何も見てはいけない。」

「あなたの任はこれ以上なく難しく、これ以上なく簡単だ。いいかい。何があっても、見てはいけない。目を開けても、見てはいけない。見たら彼らに見られてしまうから。地獄とはそういう場所だ。見なければ、すべてうまくいく。見てしまったらどうなるのかは、私の口からでも言えない。」


そして、ついに天使の迷いは晴れ、感極まって無余涅槃に至ったのです。

「解脱の天使」はこうして他己のすべてを解脱せしめました。


救われた地獄では、今日も、亡者が亡者を仕切るのです。


           ※※

<令和2年の振り返り>

今年6月にnoteを始め、たくさんの方と刺激し合い、

尸解への道らしきものを見つけたような、

無事にして、いろいろあった一年間でした。

読者のみなさまをはじめ、私のすべてに感謝申し上げます。

よいお年を。

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