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「轍、寄り道、回り道」-前編-

 <はじめに>

 これまでブログやSNS等で自分の気づきや体験などをアウトプットしてきました。いつか自分の生い立ちやストーリーなどを書きたいと思うものの緊急性がないため取りかかれないままでしたが、ある講座で自分史というものを作る機会がありました。

他人が読んで役に立つだろうか、読みたい人がいるだろうかという懸念はありますがこんな機会でもないといつまでたってもできないのはわかっているのでちょうどよい機会だと思って書いて、公開していなかったのですがこの度、noteを始めるきっかけにしたいと思います。

<誕生から小学生時代>

 私は昭和50年5月2日、富山市で生まれた。1歳違いの弟、父方の祖母と5人家族だった。祖母は私が7歳の頃入院し10歳の頃に亡くなった。祖母は、物心ついた頃には寝たきりになっていて入院していた姿しか記憶にない。父は、私が小学生の時に脱サラして自営業になり運送業をしていた。母は保育士で働き続け、私は生後2ヶ月から保育所に入所した。保育士の母が私たち兄弟を保育所に迎えにくるのはいつも最後だったが、寂しいと思うことはなく楽しく保育所生活を送っていた。

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 幼少期の好きな遊びは絵を描くことで、お絵かき帳やチラシの裏に落書きをしたり塗り絵をしたりするのが好きだった。弟とは仲が良く、家で2人一緒に過ごすことが多かった。5歳の頃、楽器屋へ連れて行かれたときに、「エレクトーンが欲しい」と言ったら、翌週エレクトーンが家に運ばれてきて習い始めた。土曜日の午後に先生が家に来てレッスンをした。熱心ではなかったが、中学を卒業してもしばらく続けていた。

 昭和57年4月、富山市立某小学校へ入学。忘れ物をしたら休み時間に取りに行けるほど自宅から近く、忘れ物が多いので「忘れ物の女王」と呼ばれた。休み時間は学級文庫をよく読んでいた。絵が得意で春の写生大会や秋の描画大会では毎回金賞をもらった。1年生の描画大会のサルカニ合戦の絵は校外で表彰され、未だに実家の居間に額に入れて飾ってある。

お小遣いは塗り絵や、漫画雑誌「りぼん」等に使っていた。運動会の徒競走は3位に入れれば良い方だったが、4年生の時に担任の先生に勧められたのがきっかけでクラスの女子と2人で軟式テニスを始める。

6年生の時は運営委員会をしており運動会で国旗の上げ下げをする係をした。友達は少なかったが、放課後は仲が良い友達の家に毎日のように入り浸り、漫画雑誌を読んだり、ひたすらおしゃべりをして遊んでいた。

 <中学校時代>

 昭和63年4月、富山市立某中学校へ入学。入学後は軟式テニス部に所属し、毎日練習に明け暮れた。暗くなるまで部活、部活時間外でも私だけコーチに連れられて、社会人の練習に行くほど熱中していた。レギュラーではあったが、私は3番手で、1番手2番手の選手たちとは実力に大きく差があった。チームメンバーのおかげで団体戦は県大会まで進めた。

 好きな科目は英語。社会だけは苦手で突出して悪かった。1年の担任が社会の先生で当時の私は彼をひどく嫌っていた。一度だけテストなのに社会だけ白紙で出したことがある。ほぼ答えがわからず投げやりになったのだが。職員室に呼ばれて注意された時も、彼にだけひどい態度をとり、他の先生に注意された。反抗期だったのだろうか。若気の至りである。反省している。

 宿題は提出するがテスト勉強はあまりしなかった。もっと勉強していれば違った人生になっていたかもしれない。
 一度だけ合唱コンクールの伴奏者になった。伴奏なんて小学校の頃もしたことがないのに、クラスで誰もいなかったのか、ピアノを習っているというだけで課題曲の「大地讃頌」を伴奏した。人生で一番練習し、なんとか乗り切った。必死になればなんとかなるものだ。

 テスト勉強もしなければ高校受験の勉強もしなかった。誰よりも早く合格が決まる高等専門学校に推薦で合格したからだ。
 推薦は、内申と小論文と面接のみで受験勉強をしなくて済む。それが受験の決め手だ。きっかけは1年の時の部活の部長に憧れていたのだが、彼女が富山商船高等専門学校へ進学したことで、興味を持った。情報工学なんて何も知らなかったけどコンピューターの時代ということと学校の雰囲気が気に入って決めたようなものだ。もうちょっとちゃんと考えて決めていれば違う人生になっていただろう。

<高等専門学校時代>

平成3年4月、富山商船高等専門学校情報工学科へ入学。1学年に商船学科、電子工学科、情報工学科がある。商船学科、電子工学科はほとんどが男子学生で、女子学生が少ないが、情報工学科は過半数が女子だった。寮もあるが家から通った。公共交通機関は時間がかかり交通費が高いので、片道40分の自転車通学をし、雨の日や雪が降る冬季は電車とバスで通学した。小学校中学校と自宅から近すぎたので、高校は遠いところを選んだのかもしれない。

部活は軟式テニス同好会と茶道同好会に所属。軟式テニスは放課後にコートに行くとだれも来ない日もあり、一人壁打ちしたりしてちょっと物足りなかった。茶道同好会は週に1回活動日があり、3年に一度の北斗祭という文化祭でお茶席を開き、着物を着てお茶を振舞って、友達が琴を演奏してくれた。軟式テニスも茶道同好会も先輩が面白くて楽しかった。

 私は、中学の時から「商船に入ったらローソンでバイトをする」と決めていた。週末は10時から17時は毎週バイトをしていた。バイト代を銀行口座に貯めるのが趣味だった。夏休みなどの長期休みは、平日も毎日入って、遊ぶよりバイトをしていた。高専はバイトが自由にできるので、バイトをするのが楽しみだった。他にも富山駅前の居酒屋、ファミリーレストラン、ホテルの清掃などもした。特に居酒屋のバイトは大学生が多くいて活気があって刺激的だった。18歳になってから22時以降も働けるので、週末は17時から翌朝4時まで働き始発で帰った。学生時代の遊びはバイト先や学校の友達とすキーやスノーボードによく行った。

 2年生の頃クラスメイトの誘いで、少林寺拳法を始める。初段黒帯まで合格し、2年ほど続けた。
 学業は入学した時がピークで、あとは底辺を這うようだった。まず情報工学科というものをわかっていなかった。2進数とか16進数とかプログラミングとか、もはや宇宙語にしか聞こえなかった。高専では先生を教官と呼ぶ。教官の話は初期の頃から宇宙語になっていた。

 高専は専門教科と一般教科があり、学年が上がるにつれ一般教科は少なくなり専門教科が増えていく。ただでさえ勉強がわからないのに、一般教科は普通高校より学ぶ範囲が狭いので、大人になってから強い劣等コンプレックスになっている。

 2年の頃に、3年で辞めて心理学を学ぶ大学に進学を考えたことがあった。調べたり相談したりして、通信教育なども考えたが最終的には選ばなかった。いつ留年してもおかしくない状況だったが、ストレートに進級させてもらい5年間通ってなんとか卒業できた。

 4年生の初夏、自転車で下校中に交通事故に遭った。私は記憶がないが、事故の相手の話によると意識はあったようで、事故後に「勉強しないと」と自転車に乗って帰ろうとしたらしい。翌日から始まる試験に対して、私は心機一転試験勉強を頑張っていたのだ。事故で頭を打ち、頭蓋骨の中で出血していて血液が溜まり危ない状況だったそうだ。救急車で赤十字病院へ運ばれ手術になった。手術のため頭髪は全て剃られて、3日後に目が覚めたら丸坊主になっていた。

 入院中はバイト先の居酒屋の人がお見舞いに来てくれた。読み終わったからと渡された本が面白くて、本との出会いがもらえた。約1ヶ月入院したので、心機一転して頑張って勉強していた試験を受けることはできなかった。

 商船学科の先輩が1年間の航海実習の間に「手紙を送ってほしい」と航海スケジュール表をくれたことがある。日記のような内容を便箋に何枚も書いて、分厚い封筒をスケジュールの船が着く港に送る。手紙を受け取った先輩は「手紙ありがとう」と電話をくれた。今では考えられないけれど、商船高専ならでは慣習で、よい思い出である。

後編に続く


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