エッセイ7「人間関係」
皆様お久しぶりです。
長らくの更新がありませんでしたがその間皆様はお元気でしたか?
私は変わらず元気です。
私がnoteを更新していない間、世の中では様々な出来事が起こっていました。
大好きだったチェルシーの販売が終了したり、鈴木福くんがお酒を飲めるようになったり。
常に世界には劇的な変化が訪れます。
私のnoteのマイページだけが一切の変化をすることなく、あの頃と同じままでいてくれるのです。
さて、それではなぜ更新が滞ってしまったのかという話を少ししましょう。
なにも思いつかなかったわけでもありませんし、そもそもこれは思考力を必要とするような高尚な文ではありませんから。
箸にも棒にもかからない意見を兼好法師よろしく、徒然なるままに書いているものですから。
そもそもこのnoteというものを始めたのにはきっかけがあります。
それは遡ること2年前、私が卒業制作に追われていたときのことです。
制作に手は抜けない。しかし不思議なことに良い文を書こうとすればするほど、しょうもない文章を書きたくなってしまう状態だったのです。
その奇行だけでも私がいかに卒業制作にストレスを抱えていたかが分かります。
私は溜まりに溜まったストレスを吐き出すかのように始めたのがこのnoteであった訳です。
時は流れ卒業制作をなんとか終え、自然とこのブログも役目を全うしたかのように思えました。
いや、厳密に言うと思っていません。
思うどころかすっかり忘れていました。
私の記憶からすっかりエッセイを書くという原動力は失せ、ただただスマートフォンのストレージを食うだけの存在となっていました。
それではなぜ、忘れていたはずのnoteを開き再び筆を取ったのか。
それはたくさん褒められたからです。
我ながら単純な脳みそをしていると思います。
しかし、そう思うと同時にやはり褒めるという行為は教育、育児の現場では非常に大切なことであると、25歳の我が身を持って実感しました。
褒められれば書きますよ、そりゃあ。
というわけで頻度は多くないかもしれませんがポツポツと再び書いていこうと思います。
それでは本題に入りましょう。
私がなにか書くときには必ずテーマを設けていました。
日常生活の中で思ったことや考える機会が多かった単語をチョイスしていました。
今回も例に漏れずそれでいきましょう。
今回のテーマは「人間関係」です。
そういえば渋谷にそんな名前のカフェがありましたね。行ったことはありませんが。
「人間関係」と聞いて思い浮かべるものはなんでしょう。
この言葉を使うシチュエーションは多々あると思うのですが、私はネガティブな会話での登場頻度が高いイメージがあります。
「人間関係」がうまくいかない。
皆様も聞き覚えがありませんか?
正直私はあまり使った記憶がないのですが、相談内容ではかなり上位に入るのではないでしょうか。
私がこの言葉を使った記憶がないのはコミュニケーションであまり無理をしたことがないからかもしれません。
私のモットーは狭く深く。
友人の数でいうと30人程度でしょうか。
ジャングルクルーズにギリ乗れない人数だと考えれば分かりやすいかもしれません。
私にとってこの30人というのは非常に居心地が良く、今もなおコンスタントに会っている人数でもあります。
これから年月が経つにつれて増えることはあるとは思いますが、減ることはないだろうと自信を持てるくらいには深い友人関係を築けています。
私は友人という基準が他の人よりも高いらしく、そう易々と仲良くはなりません。
自覚はありますし、よくないことであるのは重々承知していますがこれはもう直ることはないでしょう。
友達が多い人というのは尊敬の対象であり、羨ましいと思うことももちろんあるのですが、それは手に入らないものを羨ましく思うことと同義であり自分には決してできません。
キャパオーバーなのです。
正直友人の人数が50を超えている人を見ると、体が2つあるのかなとか体力が無限にあるのかなとか変な邪推をしてしまいます。
私はフットワークが軽いと言われることがありますが、そうではありません。
足を動かす範囲が狭いだけなのです。
皆さんがグラウンドを必死に走っている中、クーラーの効いた四畳半をちょこちょこと移動しているだけなのですから。
好きな人たちからの誘いは行けるのであれば絶対に受けますが、そうでなければ普通に断ります。
そういうわけで私はフッカルの風上にも置けないのです。
友人との関係では私は狭く深くと述べましたが、この考え方では成立しない人間関係の構築方法が存在します。
それは友人経由で誰かと知り合うという割とベターな交友関係の広げ方です。
ハッキリ言います。私は友人の友人があまり得意ではありません。
私はこれまで友人に紹介してもらった人と仲良くなったことがほぼありません。
私の友人はあくまでも私が能動的に動いて友情を育んだ人しかおらず、誰かが間に入ることはほとんどなかったと言っていいでしょう。
私と私の友人と友人の友人。文字に書くとわけがわかりませんがそういった状況が生まれたとします。その状況での私は非常に愛想が悪く見えるそうです。
私としてはそんな自覚はないのですが、本調子でないと理解しています。
当時の私は理由がわかりませんでした。
しかし、恋愛漫画に置き換えたときに非常に腑に落ちるということが最近わかりました。
少しずつ関係性を育んでいたところに突如現れたライバルの出現でモヤモヤする。
よくある展開です。
この主人公の心境と私の心境は全くもって同じです。
私はマーガレットやりぼんの価値観で友人と接しているのです。
これが例えば友人の彼女だとか彼女の友人だとかそういったところでは発生しない感情です。
友人の友人というときにだけスイッチが入り、臨戦体制に入ってしまうのです。
つまり友人の友人はあくまでも私にとってはライバルであり、仲良くなろうだなんて露ほども思いません。
これは私が小学生のときから一貫しています。
しかし、別にその人が嫌いだというわけではありません。
その人が私の友人を介すことなく接することができれば私は友好関係を築くことは可能です。
その後に3人で遊ぶことに対しては何の抵抗もありません。
意味がわからない。今皆様の心の声が聞こえました。
しかし私の頭の中では成立しています。
友人とその知り合いと遊んだ。
私の友人2人と遊んだ。
この2つは私にとっては天と地ほどの差があり
全く別の空間であると認識しています。
結局のところ私が納得すればそれで良い。
あくまでも友人に関しては自己中です。
こういう話をしていると友人からは、
「じゃあそういう場には呼ばない」だとか
「紹介するのはやめる」と言われることがあります。
当然ですね。
しかしこれは声を大にして言いたい。
誘ってはほしい。
ひょっとしたら行かないかもしれない。
ひょっとしたら愛想がないかもしれない。
ひょっとしたらずっと敬語かもしれない。
だとしても、誘ってほしいのです。
面倒くさいですね。いやもう本当に面倒くさい。
我ながらこんなやつが友達にいたら大変だろうと思います。
だからきっと私の人間関係は2年前から増えることなく滞ったままなのでしょうね。
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