一番良かったとき

報道番組を流すテレビに映る50代の男性キャスターが、昔時々歌番組で見かけた藤井フミヤの髪型にそっくりなので、「ねぇ、この髪型ってチェッカーズって感じだよね」と歯を磨く夫の人に言ったら、「人って一番良かったときのことが忘れられないから、昔の髪型やメイクのままになるらしいよ」と泡を丁寧にすすいだ後に答えた。私は夫の人が身支度をする様子を見ることが好きで、よくベッドに寝転びながらその姿を見ていた。均衡がとれた美しい人。出かける前にすべての下着を変えて、程よく皺が残されているシャツに袖を通す。シャツの色はさっき流したであろう、歯磨き粉のようだった。

一番良かったときは、一体いつなのだろう。思えばあの時もだらしなかったし、あの頃はみっともなかった。10代にも、20代にも戻りたくない。懐かしくて、くすぐったくなるような思い出はあるものの、どれもこれも「一番良い」とは言い難い。強いて言うなら一番良いのは今なのかもしれない。

文章を書くことが楽しくなってきて、封印していた記憶が「そこそこの鮮度」を持って蘇ってきている。あなたとのこと、は1つの箱に収めていて、片手に乗る程度の箱に収まらないものは全て処分した。箱1つ分でも残していると知ったら、少しだけ驚くのではないかと思う。箱の中には、その頃の匂いを纏ってしまっているものを入れていて、浜名湖で買ったキーホルダーは12月特有の乾いた風の匂いがするし、江の島で買った小さな瑪瑙のアンティークの指輪は、あのお店のクチナシのような匂いがする。匂いがあるものはどうしても捨てられず、できるだけ乱雑に片付けていた。

わかってはいたけど意外とセンチメンタルなことするね、と言われそうなので、箱があることは、あなたには一生知られなくて良かったと思っている。色んな匂いが、どれ1つ間違うことなく混ざり合っている箱を開けると、名刺サイズに折りたたんだ小さな手紙が入っていた。

こんなの書いてもらっていたっけ、と思い広げると、明朝体をバレンで押したようなクセのある字があった。文字がもうあなたそのもので、そういえば私はあなたとちゃんと出会ったことがあって、ここに手紙がある、その事実に狼狽えてしまった。見ないようにしているだけで、わざわざこんな小さな箱に入れておかなくても、私という箱にはまだ乱雑に、あちらこちらにあなたの記憶が残っている。

でも今は、お互いがお互いに、一番良かったときを過ぎてしまった。私の髪型もメイクも変わってしまった。体重は2キロ減り、髪には少し白髪が増えたし、健康診断ではあの頃よりもなぜか身長が伸びた。そしてあなたといた頃よりも、少し美しくなった。再度手紙を名刺のサイズに戻し、箱に入れる。だからこういうことはしないでって言ったのに。箱は来週金曜日の燃えるゴミの袋の底に入れる。一番良かったときのものは、そのままに留めてはいけないのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?