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『放哉譚』 中原成之良

 大正十四年、僕は(光石蕗時代)鳥取二中に奉職し、野坂靑也、河本綠石、重村百堂らと共に層雲鳥取支部「湖の会」を起したのであるが、その頃が丁度放哉の南郷庵、井先生の橋畔亭、所謂短律時代であった。
 当時僕は二中生に熱心に自由律を指導し、パンフレットを出しては小豆島に送り、放哉の批点を乞うていた。彼は生徒の作品を非常に喜んだがその喜び様が普通ではなく、「頼むから今後もドシドシ見せて下さい」といった風な懇願の調子であった。思うにそれは彼が童心の持主であったからばかりでなく、ひそかに郷里の子弟と句の上でつながりをもつ事を喜んだのだと察せられた。で、いつか僕が「アンタは鳥取の産だという事だが…」と言ってやったら、それには何の返事もなくそっぽを向いてしまった。
 放哉の歿後彼は郷里を憎んでいたとか言われたが、「湖の会」で発行した郷土の親戚や友人達の感想を蒐めた「春の烟」を熟読してみても、どこにも彼が郷里を憎む理由はなく、むしろ棄てた郷里や妻君を最後まで懐かしがり恋しがっていた事が考えられるので、結局現在の湖同人としては、当時の彼の世間的零落が郷里の肉親、殊に彼の妻君の実家に対する義理合上顔向けが出来ない所から起る一種のカムフラージュとして彼がその様な態度をとったのではなかろうか。
 さて、話は元に戻るがその二中時代僕は放哉に句を見て貰い指導を受けていた事勿論である。時には原稿紙五六枚に亙って談論風発といった彼一流の俳論を吹きかけられ、「大主観の底をぶち抜け」とか何とか、まるで僕は叱られてばかりいたのだが、当時の僕にそんな事が分る筈もなく情けない始末であった。此君楼氏の「一鉢の黄菊」が分からんといってやった時も、「ヤレ、ヤレ、肩がこるのにアンタもそんな事をきくのか。二三日前にも九州中津の同人が同じ質問をしてきたので長文の返事を書いて疲れている所だが、一体あんなものは句じゃないですよ。アレハ只井師が此君楼に試みさせてるだけで・・・」という様な事で、それでもその句の説明は懇切丁寧を極めていた。
 その後昭和十一年(禮二時代)僕は層雲に「短律精神」なる一文を草し、續いて又「斷想」を書いて「短律は俳句の本道である。現象の底に流るる生命の實相を見よ。本来の面目を見、活き物を摑め」と叫んだ。但し結論的には「必ずしも長律を否定するのではないが、短律表現と長律表現とは心理的に大きな相違があること」そして「新しい趣味でしかないこの頃の風景俳句には厭き厭きした」と歎じたのである。爾來囂々たる物議をかもし短長両律論は今尚後を絶たないと言えば言えるであろう。
 当時の僕は俳句を余りにも宗教視し過ぎていた様であるが、元来僕がそんなたちの男である上に、放哉全盛、心境俳句、短律俳句全盛期時代に層雲に入信?した者であったがためでもあろう。
 然し、僕は今でもその気持は捨てない。出来るだけ宗教的な突っ込み方をしたいと念願している者である。宗教は溌溂切れば血の出る現実活社会に即したもので、放哉や山頭火の如き隠遁形式者のみのものではない。けれども、兎に角放哉の句にはこの溌溂たる、僕の言う「活き物」が多量に潜んでいることを我々は認めなければならないし、それをもっと我物にしたいと僕は思う者である。その意味で牽牛花氏の言う第二期短律としての

  日にふれて蝶花を出る  黎々火

は近来の傑作だと思う。この躍如たるものを見よ。「活き物」即ちこれだ。僕が十数年来志向して然も実作し得なかった所をズバリとやられたものだと感嘆に堪えない。
 勿論句の世界は広くして深いので、こんなものばかりが句ではない。僕はこの頃棺桶や死骸を諦視したり、反対に生息そのものに目をつけたりしているが、又一面三好草一に感染して叙情テンメンたるものを恋しがったりして、いつ「活き物」へ到達する事やら低迷迂回している次第である。だが、目標は遥かに遠く定めているつもりである。千秋子もいいし稲市もおもしろい。内容種々雑多雑多、短律あり長律あり、このバラエテに富む所が自由律の自由律たる所以で、決して一方に偏すべきではない。
 唯、僕の言いたい事は、我々の句が単なる風景叙情詩に終始しないで、もっと心境的に人間をまる彫りにしたものがほしい事、活き物を摑んだ句をもっともっと目がけてほしい事、貧しくとも苦しくとも生活によろこびを与え、力を与え、それが明日の力の源泉となってくれる様な力強いものがほしいという事だ。
 叙情詩や風景詩に浮き身をやつしている今の我々として今一度放哉をふり返りその懸命の迫力に打たれる必要があると思う。どうも近頃の若い人は句への歩み方が目まぐるし過ぎはしないか。放哉もすんだ、裸木もすんだ、××も××も行きづまった、とか何とか言って、自分はそれらの足元にも及ばぬ癖に過去のものを弊履の如くふりすてて光へ光へと何かしら新しい詩の亡霊を追ってかけてゆく。そこには何かしら早く自己を打ち樹てたい、早くかちどきをあげたいという焦りがあるように思える。それは浅ましくさえある。
 新短律もいいけれど第一期短律時代はすんだ、第二期もすんだ、さア今度は第三期だぞなどなど言われると僕はもう胸が苦しくなる。そうしたもんでなければならず、又そうしたもんでもないと僕は思うのだ。僕は今更の如く朱燐洞と取組み、默徒と取組み、放哉裸木と取組んだりしてかみしめてみているのだが、真理は常に新らしいと思う。新必ずしも真ならず、真必ず新なりと言い得ないであろうか。


※『層雲』第37巻 第10号(昭和」25年3月)を底本としています。
※読みやすいよう、異字体や旧仮名使いに関しましては、正字・現代仮名使いに変換している箇所があります。


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