ありがちな幻想 愛と信仰について
なんで宗教があり、信仰という行為が存在するかと言えば、人は世界にある未知の何かが怖いのだ。言葉にできない不安、とでも言えばいいか、とにかく、人は不安でいることが怖くて安心を求めて、そのために神を生み出してそれを信仰することで安心を得た。というのが、宗教史の原風景である。そういったものだから、どうしても不寛容になる。寛容に様々なものを取り込めば、その分だけ未知なる何かを吸収することになり結果、不安に呑まれるからだ。一神教の信仰者の強みは、不安も疑問もなく、どんなことでも実践できることである、と言い切ってもいい。
現在ならば、イスラエル軍がそうだ。彼らは自分たちの行いが正義であり、信仰の聖地を取り返すための聖戦だと考えている節がある。パレスチナの支配権を持ち続けていたのは誰か、という問題の答えを出すのは容易ではないが、強いて言うならイスラム系の人たちに軍配が上がる、かもしれない。少なくとも、ユダヤ教徒の聖地として支配されていた時間はそう多くない。そこから派生して生まれたキリスト教の聖地として支配されていた時期でさえも、そう多くはない。
おそらく、その一帯が最も平和だったローマ帝国傘下の時代では、帝国の主義に則り多様な宗教が認められていたから、ユダヤ人が行政官を務めることは多かったが、ユダヤ教の聖地ともキリスト教の聖地、とも言いづらいものだった。あくまでボスはローマ皇帝と元老院だったからだ。それでもユダヤ人がユダヤ人らしくパレスチナで生きられたから、その意味では現代よりも彼らには都合がよかった。それを手放すことになったのは、ローマ帝国の弱体化にあるが、その対策を出す、という意味ではユダヤ人はまったく役に立たず、キリスト教に敗北して、聖地を追い出されて、その怨念を子供たちに感染させて、現代まで遺る遺恨を作った。
しかし、彼らの立場で考えれば、信仰とそのための聖地がなければ、神の愛を賜ることができない、となり。だから、かつての十字軍のように、信仰と愛の名の下に戦争をするのは正義なのだ、となるわけだ。
日本人には理解しづらいロジックかもしれない。宗教に興味があまりなく、仏教と神道以外にも寛容だと言ってもいい民族として長年、生きて来たからだろう。寛容とは所詮、一神教の世界では生まれないものである。とはいえ、日本人も正義という神を信仰し始めて、寛容さを失いつつあるが、それは主題ではないので、さておく。
つまるところ、愛とは人を愛する以上に、神を愛する――信仰である、というのが歴史から学べる。自由恋愛だとか慈愛の精神なんてものが生まれたのは、比較的近代である。少なくとも、神を信じ始めた時代からは千年単位の時間が必要になった。
だから結局、人にとって愛とは信仰であり、であれば、そこに見返りを求めてはいけないものなのかもしれない。愛することで何かを得よう、というのは、身勝手で傲慢である、と言ってもいい。
人類は自由恋愛より先に、娼婦とのその場限りの愛を手に入れた種族でもあることを忘れてはいけない。結婚相談所やマッチングアプリの登場の数千年前から、娼婦はいたのだ。古代から一度でも歴史上から消えたことのない職業、と言えばいくつかあるが、その中にそれは入っている。愛することで何かを得るという行為は、結局、娼婦との一晩限りの愛と同じ、と言ってもいいくらいだ。
長々と書いたが。
愛=信仰であるならば、自由恋愛は成立しなくなる。愛に見返りを求める自由さえも認められないのが、信仰というものである。信仰することで得られるものは、安心ではあるが、それは他者を認識しないことで得られる類の安心であり、そこに他者が介入する余地はない。それでは悲しいからせめて他人を愛そう、という思想から自由恋愛は生まれたのだろう。
実際、多くの人が安心を得るために他者を――不安を生み出すかもしれない存在を殺してきた。人類史における戦争の意味合いは、食を求めてか、葉運を生み出す存在の抹殺のためか、に大別できると言っても過言ではない。
近年のSNSや動画サイトにおける愛は信仰だった時期もあるかもしれないが、今や、視聴者がインフルエンサーや配信者に理想を押し付けて、理想を実践するという見返りを求めるための愛に化している。はたして、それは愛と呼ぶに足る感情なのか。
俺はこれまで愛した、と言える人が二人いるが――二人しかいない、とも言うが――俺はその二人を信仰して、言葉をご神託のように思っていた。だがそれで安心を得よう、とは思わなかった。言ってしまえば、俺の存在が彼女らの人生の中に存在していなくてよかったのだ。愛する人の人生に介入するなんていう見返りを求めてはいけない。真剣にそう思っていた。大切なのは神の幸福であり、神に何かして欲しい、と思ったことはない。
だから俺の愛はひとつでも成立しなかった。それこそ、娼婦相手にしか成立しなかった。その場限りの愛は、限りなく見返りを求めない愛に似ている。似ているだけで、まったく別物ではあるが。
人を愛する時、それが見返りを求める私欲なのか、信仰して敬うのか。人を愛する前に、それを考えてみて欲しい。見返りが欲しい、という想いが勝っているならば、それは愛ではない。ただ相手の心の一部を奪おうとする傲慢で身勝手で、子供の癇癪と同じものだからである。
とはいえ、信仰という愛であるならば。それも、神を解釈しない、あるいは、神に執着をしないが信じる心は捨てないという愛ならば。
人の歴史は終わるだろう。
少なくとも、現在の人類は愛を介することでしか子供を作れない。愛がなくても性行為はできるが、愛がなければ子育ては失敗して、作った意味のない子供しか生まれない。それでは結局、人類史の衰退は止められない。
現代人は、愛について考え直す時代を迎えたのかもしれない。人を愛し、子を愛し、未来を愛することでしか、人は歴史を紡げない。そのために必要な愛は無償の愛か、それとも、無心の信仰か。
そんなつまらない思想に反逆する、新時代の愛の思想が生まれない限り、人類という種の終わりは早まるばかりだ。もちろん、盛者必衰は人類の宿命である。人類という種もいつかは果てる。だが果てるその時に、満足して終わるためにこそ、人は愛について学び、考えなくてはいけない。
社会の謳う愛を盲信するのではなく。そのような幻想に酔いしれて、無意味に摩耗していくのではなく。
目を開けて、耳で聞き、匂いを感じ、相手に触れて、時には互いの味を確かめ合って――五感を使って考え、悩んで。
次の時代の愛を見つける。それがきっと、新時代を切り開くことになる。人は愛を正義として掲げ、多くの命を奪ってきた。そのツケを払うように、愛で身を滅ぼしていく人たちがいる。そんな悲しい時代も、終わらせなくてはいけない。
終末の後にしか、新生はない。この世界は、そんな世界だから。
愛を、終わらせる――それに縋るべき、というありがちな幻想を捨てる時がきっと、今を生きる人の義務である。それは辛い道だが、人間、楽をして生きているばかりでは、自然にすら敗北してしまう。人はそれほどまでに弱いのだから、強くならなければならないし、人は愛を知って強くなることができる。だからこそ、その愛を間違えてはならない。
正しい愛を、人は見つけるべきだ。それができるくらいの器量はある、と信じたい。俺にはないが、その手助けくらいはできるから……。
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