愛とか推しとかそういうふわふわしたものの話

 まぁ眠いし、結論を先に書くのが評論のテクニックのひとつなので、書いておくが。いや個人的にはこのテクニックは好きではない。なぜなら、結論を先に決めた上で何かを書くと、それの成立に邪魔になる情報を無意識下で切り捨ててしまうからだ。大学教授なんかの本がつまらない理由の八割はそれで、残りの二割は文章を書くのが下手なのに上手だと誤解できる立場にいるからだろう。学生の下手な文章を馬鹿にすることしかしないのだから、必然、自身の文章を磨くことはしないでいい。相手に馬鹿にするか、上から目線で評価してやっている状況下で成長するのは難しいし、大学教授の大半は成長を止めた人の墓場の民でしかない。

 ともあれ。

 愛=推し、ではないという話だ。
 より正確に言えば。
 推し=自己愛、だという話である。

 ホストなんかを例にするとわかりやすいが、ホストにハマる女性たちはホストの彼自身が好きになっているのではなく、ホストの彼が――つまり見た目が好みの男が――自分を肯定してくれることで、自己肯定感を上昇させて自分を好きになるためにホストクラブに行くのである。

 いや、言い切ってみたが、俺はホストクラブに行ったことないし、キャバクラも未経験ではあるが、つまるところ、水商売というのは客の自己愛を満たすためのものでしかない、というのは古代から変わらない。売春が古代から残る数少ない職業なのは、男が女を抱くことで征服欲や支配欲を満たすことで、そういうことができる自分を好きになれるからである――それが自己愛以外の何かであるはずがない。

 水商売の原点は間違いなく売春であろう。つまり、スタート地点が自己愛を満たすためであるならば、その形態は時間を経過しても変わらない、となる。どの時代でも自己愛を嫌いな人間はいない。自分が嫌い、と本気で心の底から言える人間はまずいない。自殺するような人は、あくまで、自分が好きになれないことに絶望しているのであって、自分が嫌いなわけではない、と思う。もちろん、今まさに生きている俺の言葉が、自殺者の代弁になることはありえない。死者の言葉を正確に表現できるのは死者だけである。

 しかし別に、自己愛を否定しよう、というわけではない。

 自分を愛せるからこそ、他人を愛せるのである。

 人間が初めて知る愛は、親から教えてもらえる愛である。それは元々は無償の愛であり、それを知ることで、人は誰かを愛することを知り、実践できるようになる。しかしながら、現代において親の愛は無償ではない。子供愛するメリットなしに子供を愛する親の方が、断じて少なくなっている。まして、愛を伝えて、躾をして一人前の人間になる道を歩かせるための導線となる、という親の義務を放棄している親が大半だろう。

 なぜなら、いくら親が子供を愛しても、子供が必ず愛を返してくれる、とは限らないことを、親世代は身を以って知っているからだ。彼らは自分たちが親孝行だったり、老後の介護だったりという条件――つまり確実にリターンの望める有償の愛の下で育ったのだからそれは当然である。無償の愛を知らない人たちに、親になったんだからそれを子供に与えよ、なんていうのはどだい、無理でしかない。俺私がしてもらえなかったことを、なんで子供相手にしなければならないんだ。親と同じように有償の愛をくれてやるんだからそれで満足しろ、というのが現代の親のトレンドであろう。現代、というか近代、と言い換えてもいいかもしれない。資本主義が骨の髄まで沁み込んでしまうと、家族間でも利益・不利益が様々な場面における判断の最高の材料になるのは必然だ。まして、現代人の多くは働いており、その中では利益・不利益以上の価値観は存在しえない。

 そんな生き方をしていれば。

 自己愛ばかりが表立ってしまうのは詮無いことだ。無償の愛を知らない人にできる唯一の無償の愛は、所詮、自己愛でしかない。自分くらいは何のメリットもなく愛せないのでは、悲しすぎる。だが、人は愛を外から受け取らないと発生させられない生き物である。だから結局、推しに対して愛を捧げることで、自己肯定感を強めて、自己愛を発生させるなんてロジックをくみ上げるのだ。

 だから、推し活というものは際限なく終わりがない。
 他人を愛することにはいつか限界が来て破綻するか、馴れ合いというか他の愛を探すのが面倒だからという理由で関係を続けるしかなくなる。
 しかし、自分を愛することはどこまででも行ける。人は他人を愛せなくなっても、自分だけは愛せる生き物だし、そんな自分が愛せる自分を――ありのままの自分を愛してくれない他人を、推しを否定するようになる。

 自分を愛してくれないのであれば、意味がない。
 自分を愛してくれるのであれば、何でもいい。

 推し活の正体はそんなものではないか、と思う。愛を知らない世代が、せめて自分くらいは愛したい、というちっぽけな、本来であれば幼い頃に脱却しているはずの地点でずっと足踏みしている、と言ってもいい。

 自分を愛するというのは、結局は外の世界を見ないし、その世界の意見を聞かないことに繋がる。だから、誰に何と言われようと推し活にハマった人は抜け出せないのである――自分を愛してくれない情報などいらないし、もし自分を愛してくれるのだとしても、それは未経験の、あるいは、推し活でしか得られない自己愛の究極系、無償の愛でなければ意味がないのだから。

 現代は、他人を愛せない社会なのかもしれない。

 人は、生まれてすぐに他人に愛されるはずなのだ――親という自分ではない他人に。

 しかし、親と子の関係が変化ではなく、腐敗しているのだから、必然、その間にあるべき愛の交換が行われず、双方向の関係である愛が一方的な独善か、押し付けに成り下がる。

 自己愛が悪、だとは言わないが、それは人生の早い段階で手に入れて、反抗期に入る前の段階でもう不要だ、と気づくものでしかなかった。が、現代人は――そしてそのルーツである昭和世代の人は、自己愛を求めるだけで具体的な行動は何もせず、誰かがそれを恵んでくれることを待ち続けるひな鳥から進化しようとしない。

 推し活とは、どこまで行っても自己愛でしかなく、であれば、それは進化や変化を生んだりしない。

 この社会から愛を奪ったのは昭和世代――いわゆる団塊の世代であろう。彼らは自身の愚かさと、自身の経験を通して得た愛を次の世代に託すことせず、自分たちが愚かであり続けるために愛を貪ることを選んだ、と言える。その果てに生まれたのが推し活=愛という、本来であればイコールになるはずがない概念である。

 推し活が悪だとは言いたくないが、あなたのそれは本当に相手を愛しているかどうか。それだけは立ち止まって考えて欲しい。自己愛を満たすためだけの推し活は、愛ではない。

 愛とは結局、報われないことを、見返りがないことを受け入れることでしかないのだから……。

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