税金について、睡魔と戦いながら考える

 所得の半分が税金に消えている、というような記事を見た。つまり、江戸時代の農民に課せられた税率である、五公五民のようなものだ。各藩ごとにこの辺の数字は変わるのだが、建て前としての数字はこれだったし、当時は米の量で決まっていたので、現代の金と同じには考えられないが、どちらにせよ、何もなければ懐に入るものの半分が、国に持っていかれるわけだ。

 数字だけを見れば、別にこれは高い数字ではない。歴史と言えるだけの過去でもそうだし、現代でも世界各国を見ればもっと税金天国な国はある。

 とはいえ、だからといって税金を納得して何も言わずに収めろ、なんてことは言わない。俺は自慢ではないが低所得者側にいる人間だし、せめて所得税だけでもこの社会からなくならないかなぁ、と夢想することはしばしばある。

 また、これだけ税金があるのにどうして政府は金がない、増税したい、と言うのかという怒りもあるだろう。だが国が管理するもの、つまり主にインフラに関する整備などはその社会に人間がいる限り整備し、そしてどういうわけか年々、その額が上がっていくという性質を持っている。

 いや、どういうわけか、と書いたが、別に大した疑問ではない。どこの会社でも年度末に予算が余っていると、どうにかして使い切ろうとする。そしていや今年度もギリギリだったんで、来年度の予算はもっと上げて欲しいんですよね、ははは。みたいな会話をするわけである。これは会社だけではなく、役所も同じで、そしてどちらも年功序列が崩壊しつつあるとはいえ、それでも、年齢を重ねた社員にはそれなりの額を支払う義務があるから、どうしたって支出は増える。で、少子化で若い社員が減ったとしても、ゆとり世代かそれより少し上くらいの世代はまだいるのである。最大のボリュームゾーンでないとはいえ、彼らの給料を低額で据え置き、というわけにはいかず、企業にしろ、役所にしろ、ある程度は上げないといけない。なお、俺の給料はそろそろ天井だなぁ、と思っているが、世間の人たちはどうですか? まだ上がる可能性あります?

 ともあれ。

 市民の生活にかかる金が上がっているのは事実だが、その市民を下から支える立場である国の金だってそれは当然、上がる。市民の中にだっていかにして私腹を肥やすか、と考えるものはいるわけで、国の側にだってそういう人はいるのだから、本来は必要ではない金までプラスされる。古代から私腹を肥やさない商売人と役人がゼロの社会、なんていうのは夢物語にすらならなかったわけで、それを根絶する、というのはいくらなんでも無理な話だ。

 そして、国というか政府は営利を求める企業ではなく、その財源はどこまでも税金に依存している。国債という手もあるが、それはつまり、国民のために借りた金を国民から搾り取った税金で返さないといけない、笑えない財源である。
 
 つまり、このまま日本が税金天国になるのを回避するには、政府が自力で金を貯える手段が必要なのではないだろうか。

 世の中的には嫌われているし、その理由はわかるし、俺も決して好きではないが、共産主義下の国のように、大企業を国営化する、という手が手っ取り早いのは事実だ。トヨタだのホンダだのを国営企業にできれば、もしかしたら税金以外の財源になるかもしれないし、あるいは、一部のJRだけでも国営化するとかだろう。山手線辺りだろうか。

 もちろん、この考えはまったく現実的ではない。自由経済の社会になってどれだけの時が経ったというか、なんなら江戸時代からずっとそうなので(都市部ではだが)、今更、そんなせこいことはできないだろう。まぁあの時代は、各藩が借金返すために地域の特産物を各藩が主導して江戸や堺に売り込んでいたりしたので、ある意味では国営企業だったかもしれないが。

 そして、希望があるとすればこの事実、かもしれない。

 日本特有の有形文化財を貿易の武器にして、他国にどんどん流すというわけだ。つまり、伝統工芸品を再生産する、というものである。これもまぁ現実的ではないが、今ある大手企業を無理矢理に国営企業にするよりかは、いくらかマシだ。

 もちろん、どの有形文化財も後継者不足で消滅する寸前である。だからこそ、今こそ県なおではなく、国が支援するのだ。その財源はまだ、税金に頼るしかないが、この交易が軌道に乗れば……

 と、書いてみたが。

 やはりこれも夢物語だし、国は有形文化財ではなく、無形文化財を守るのに必死だから現実的ではない。政治家というか、一定の年齢以上の人たちは有形文化財が何もしなくても残って、後継者なんかもその辺から生えてくる、くらいに考えているのだと思う。これは人財にも言えて、優秀な人材がいなくなっても、他の人材がなんとかするだろ、というわけだ。できるかそんなこと。

 さて、そろそろ眠りたいので強引に締めるとすれば、税率を上げずに国の財源を潤すのは自由経済の下では難しいのである。そして、それを変えるためには、一見無駄でしかない、遅々とした速度の活動が要求される。共産主義に鞍替えするなら、共産党に権力を握らせて暴走させればできるかもしれないが、そんな劇薬に耐えられるわけがない。

 つまり、未来のために今、なんとか踏ん張るしかないし、踏ん張れば未来はいいものになる、という保証が必要だ。それは要するに、国を信じ、次世代を信じることだ。Z世代が問題行為を連発しているからこそ、更にその下の世代に託すのだ。今を生きる俺たちが辛い想いをするかもしれないが、それを受け入れて、国と社会を変えるしかない。

 一年後にはより苦しくなっているかもしれない。
 五年後にはさらに苦しくなっているかもしれない。
 十年後にはほんの少しマシになっているかもしれない。

 そんな牛歩戦術でいいから、変えていくしくない。
 俺の年代はたぶん、我慢し続けて終わるだろうが、それもまた人間社会には必要なものだ。

 税率が少なくても成立する社会とは、市民と国、双方のやせ我慢の末にしかないのだから

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