徒然 元気のG!

 劇場版Gのレコンギスタ
 凄まじい作品である。80歳の老人が作ったとは思えない、情熱と未来への希望を見出そうともがく姿を、あらん限りの熱量で描いている。
 
 はっきり言おう。
 TV版は万人が見るに値する作品ではなかった。
 しかし、劇場版富野監督の言う通り、若い世代こそ観て欲しいし、これを観たオールドな人間たちは(無論、俺を含む)彼らにこの作品を教えないといけないし、80歳の老人にこんな作品を作ろう、と思わせるような世の中にしてしまったことを悔いるべきである。

 富野監督の感性はどこまでも瑞々しい。若い人の鑑賞に耐えうる作品だと思う。
 クリエイターとしてよく同列に扱われる――と言うのはいささか贔屓目かもしれないが――宮崎駿はちゃんと老けてしまったし、押井守は変化のなさで停滞してしまった。庵野秀明という人はモラトリアムに引きこもる道を一端を否定しながら、結局はそこに帰結した。新海誠は自分の世界しか描けないし、細田守もその意味では彼と同じだ。

 劇場版Gレコは、若い人への未来を考えて欲しいという願いの集合体であるし、同時にクリエイターたちに、お前らはもっと広い世界を見て、その上で自分にしかできない冒険をしてくれ! という監督の懇願がこもっていたように思う。
 実際問題、クリエイターは創造者ではなく、スポンサーの意思を表現するマシーンになっているように思う。面白いかどうかではなく、彼らを悦ばせるためのその場しのぎの享楽的な作品が増えているかもしれない。

 確かに、それは金を生む。経済を回す。正しいだろう。
 だが、それだけの作品を生み出すために、人の想像力は、未来を想う能力はあるのだろうか。
 そうでないと信じたい。信じたくなる。その元気を、この作品は放っている。どこまでも優しく、そして、厳しく。
 戦い、前に進むことを肯定している。

 無論、それができる富野由悠季という人が積み上げてきた実績があってのことだ、と言われれば否定はできない。この監督にならば、何度でもチャンスを与えようと思う人は、確かにいるのだ。
 だが、その好機を与えられるのを待っているだけでは、絶対に手に入らない。チャンスは自ら掴むものであり、そうしなければ、サクセスも掴むことはできない。プライドを満たせることもない。
 
 元気よく、前に踏み出そう。その道は孤独で困難で、どうしようもなく、歩み続けることはできないかもしれない。
 だとしても。
 人は何度でも立ち上がり、何度でも足を進められるはずだ。
 それは、たとえば、ニュータイプになんてならなくても、できることなのだ。特別なことではない。ごく自然に、少しだけがんばればできることのはずだ。そうでなければ、人類が今日まで歴史を紡げたはずがないし、できないのであれば、これからの歴史を紡ぐに値しない。

 激動の時代と言いつつ、誰もが過去を模倣して、停滞しようとしている。そんな社会に風穴を開けてやろう。それくらいの元気は、オールドな人間になってしまった俺たちにだって、できるだろう。その鋭気を、Gレコがくれた。80歳のお爺ちゃんが、あらん限りに届けてくれた。

 さぁ、踏み出そう。元気よく。始まりを、始めよう。幼年期の終わりはすぐそこまで、来ているのだから……

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